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マナの父親に馬でナザ村の近くまで送ってもらったユーリーが、真っ先に向かったのは収容所の裏手にある墓地だった。政治犯といえどもやはり囚人。とても粗末で木の墓標は数年で朽ちて果ててしまうにちがいない。
長年の間にいくつも立てられた墓標の跡を通り過ぎ、もっとも新しい墓が並んでいる場所までやってくる。その右端にオレグは眠っていた。
丘を登る途中に摘んだ小さな黄色の草花を墓前に置くと、祈りを捧げる。日一日と暖かくなっていき、寒々とした墓地にも柔らかな日差しが降り注いだ。
木の墓標には小さく名前が刻まれており、ユーリーはそっとそれを指でなぞる。本来ならばそんなことはしないが、無名なままではあまりなので自分が彫ってやったのだ。しかしあいかわらず不器用なので、文字というより記号みたいになっている。
「これじゃ僕にしかわからないね」
そうつぶやき、小さく失笑するのだった。
雪解けとともに棺を埋めたから、そろそろ一ヶ月をすぎるころだ。ジャガイモの植え付けを早くすませなければ、良い芋が育たないとムルハンは言っていた。しかしまだ畑すらない。
「どうしようか……、オレグ? 僕ひとりじゃ畑を作るのも難しい。だからといって、村の人はこれを嫌っている」
ユーリーは麻袋のなかから種芋を一つ取り出すと、墓地の隅に埋めた。畑でもなんでもないが、ここに来た証として残しておきたかったのだ。ナイフで分割しようと思ったものの、やはり手錠が邪魔で仕方ないから、それは諦めるしかなかった。
「とりあえず、これは君の分だ。どんなふうに成長するのか、見守ってくれ」
聞こえてくるのは小鳥のさえずりと、風にざわめく木々の梢だけだった。
オレグの家族は彼が亡くなったことをそろそろ知るはずだ。遺族に手紙を書くのが所長の役目で、墓前に参ることは許されている。
以前、金貸屋だった実家は、オレグが子爵令嬢と婚約したことで莫大な資金を得、商売換えをしたと聞いたことがある。たしか貿易商を営んでいると彼は言っていた。港町に実家があるから、まさしくうってつけの商売である。しかも子爵が後ろ盾についているから、その地方一帯の流通を独占していたともいう。
しかし今はどうなのだろうか。
ある日、オレグは突然、自分の前に姿を現し「婚約は破棄した」とそっと告げた。理由は一切教えてくれないまま、ペトルシキンが指揮している運動にそのまま参加したのであった。
他の仲間たちには「士官学校時代の学友」とユーリーは説明したが、ペトルシキンは時々それを訝しんでいた。今でもそれは変わらない。
たしかに怪しむのも無理はなかったろう。士官候補生だったというだけで、あれほどまで確実にそして冷酷に人を撃つことができるのだろうかと。その瞳には躊躇が感じられず、ユーリーにはそれが恐ろしく思えることも否めなかった。
その反面、ひどく自分に甘えてくるようにもなっていたから、その落差に戸惑ってもいた。ひどいときは夜が怖くて眠れないとまで言い、抱きつかれたままベッドに転がったこともある。といっても狭くて自分が眠れたものではないから、相手が寝息をたてたのを確認すると床で毛布にくるまっていたのを思い出す。
それでもオレグの口から「寂しい」といった言葉は出てこなかった。
初めて耳にしたのはトーシャが亡くなったあの日の夢である。
アリサを失ってからそんな感情に囚われるようになったのだろうか。
それとももっと昔からそうだったのだろうか。
お互いの実家の話をしたことはあるものの、オレグが決して母親のことを話さなかったことに気がつく。もしかするとそのあたりに深い事情があるのかもしれない。父親のほうは極秘に賄賂の資金を送るぐらいだから、そうでない確信はあるのだが。
せめて彼の父親だけでも墓参して欲しいが、やってこない可能性も大きい。オレグが婚約破棄したのだから、子爵との関係も良好であるはずがない。
もしかすると息子を恨んでいるかもしれない。
せっかく命を削ってまであれだけの大金をやったのに、どうして収容所で果ててしまったのか。おまえは勝手なことばかりして、私を悩ませるだけだったと。
その大金は今、自分の胸にある。
一枚はムルハンに渡してしまった。彼なら村のために使ってくれると信じている。
残りの四枚を収容所のために使おうかと考えたこともあったが、それは一時の凌ぎにすぎない。あと九年半もここにいなくてはならないのに、これでは四、五年しかもたない。もしまた食糧が高騰すれば、それすら危うい。
ならば当初の目的どおり、冷害に強いというジャガイモを栽培してそれを食糧の代わりにすればいい。
残りの金貨は私欲のために使わないことを、ユーリーは墓前で堅く誓う。
「これは君のものだから、納得できないことがあったらいつでも言ってくれ」
収容所にもどって所長に報告をすませると、翌日からナザ村を回ることになる。ひとりではどう考えても畑を作れないし、麦畑の隅でもいいから借りることができないだろうかと、村長に話をつけるためである。
ユーリーは閑散とした村内を歩きながら、春だというのに活気がないから心配になってきた。みすぼらしい家々からは飯の支度をしている気配がしない。昼時だというのにどこも煙突から煙が立ち昇っていないからだ。
村の中心に位置する広場までやってきても、子供の姿すら見当たらない。木々には黄緑色の小さな若葉がついているが、生命力を謳歌するのはそれだけだろうか。
マナがいる村だと犬たちが元気良く走り回り、子供たちの姿も見かけた。しかしここには何もない。
ユーリーは村長の家を訪ねてみたが、そこにも人の気配はない。
冬のように閉じこもっているはずはない。今、動き出さなければ誰が農作業をするというのだろう。村人総出で畑へ出ているのかもしれなかった。
その足で広大な麦畑へと向かう。案の定、村人たちが総出で種まきをしている最中だった。村長の姿を探したが、彼も老体をかがめて種まきをしている。とても話しかけられる状況ではない。
赤い花柄のスカーフも見えた。ターニャ婆さんだ。彼女もまた村長よりずっと年上のはずなのに、それでも種まきをしなくてはならない。
そうか。マナのいる村と決定的にちがうのは、ナザ村には農作業しかないということだ。あるものは狩猟をし、またあるものは畑に出て、またあるものは村の人々のため精霊の声を聞くといったように分業化されていない。効率は良くなさそうに思えるものの、ひとりひとの能力にあった仕事でもあるから行動の自由がある。それぞれが思う範囲でこなしていけばいいのだから。
しかしこの広大な麦畑にはそれがなかった。誰もが同じ姿勢で同じ作業を繰り返す。村長ですらそうなのだから、小さな子供たちも例外ではない。
それがここのやり方なのだろう。かつて農奴と呼ばれた彼らの。
故郷や帝都で食べていたパンもこうして作られた麦が材料だったのだ。
なんとなくその場にいづらくなったユーリーは、農作業が終わる夕方まで遠くで待つことにした。が、不意に声をかけられてしまった。
「あ、悪い人がいる!」
五歳ぐらいの男の子と目が合う。こちらを指差して、悪い人だと三度口にされた。手錠のせいにちがいない。
その周囲で作業をしていた村人たちの視線も集まってくる。それは冷やかなものではなかったが、受け入れられるものでもなかった。どちらでもいいといったふうで、そのまま作業にもどる。
彼らの無反応さがかえって不気味だった。子供の言葉だけが妙に透き通って心に響いてしまう。村長も気がついたようだったが、話し合う気力が失われてしまい、うつむいて畑を遠ざかった。
はるか前方から箱馬車がやってくる。庶民でなくどう見ても地位がある者が乗る立派なものだ。
こんな田舎に? 村には誰もいないというのに?
素朴な疑問に答えるように、馬車は畑の前に止まった。中から鞭を手にしたいかつい大男と、小柄な役人風情の男が出てくる。村長を呼び出すと、なにやら説教らしきものを始める。
遠くだから声まで聞き取れないものの、ひたすら頭を下げる村長の様子から察するに、税の取立てに関することらしかった。昨年は冷害だったから、今年はそれを取りもどすように言われているのかもしれない。
その間、村人たちも手を休め、頭を垂れて役人が去るのを待っていた。
突然、男の子がわめく。鞭がしなる。それでも子供が泣くものだから、母親が抱きかかえて地面に顔を伏せさせてしまった。これでは声を出しようがない。
もがき苦しんでいるだろう男の子のことを思い、ユーリーは陰鬱な気持ちになった。一刻も早く馬車が去るのを祈らずにいられない。
願いが通じたのか、それからすぐに役人たちは去っていった。村人たちは何ごともなかったかのように農作業を再開した。
帝都の貧民層ほどではないにしろ、ここの貧しさもひどい。あれではいくら豊作でも領主や地主が根こそぎ税としてもっていくにちがいないだろう。いくら働いても暮らしが楽にならないはずだ。
やがて地平線がほのかに赤く染まり始めた。それを合図に麦畑にいた村人たちが背伸びをして、歩き出す。農作業が終わったらしい。
遠くから見つめていたユーリーは、重い腰を上げて村長を探す。すぐに見つかった。なぜなら村長がこちらにやってきたからである。
帽子を脱ぐと、立派な髭をたくわえた村長が、不思議な顔をして言った。
「さっきからずっとわしらを見ておったろ? 用事があるなら早く言ってくれ。他のもんもおまえさんを気味悪がっておる」
そんなふうに見られていたとは……。
苦々しい気持ちを胸に押し込め、今朝から何度も頭のなかで反芻した言葉を口にする。
「畑を貸していただけませんか? 隅の一角でもいいんです。その代わり、収穫したものは半分差し上げます」
「それはいいが、いったいなんなんだね?」
「あの……」
ジャガイモ、と口にしづらい。たちまち拒絶するであろう、相手の顔が浮かぶ。
視線をそらしてしまったユーリー。
「そうか。あの芋だな」
ためらう自分の様子で村長は気づいたらしい。
「ええ。冬を乗り切るために必要なんです。畑を作ろうにも僕ひとりではどうにもなりません。我ままな申し出だとは思いますが、大勢の命がかかっているんです。どうかお願いします」
ユーリーは膝を折り曲げ、地面に両手をついた。掌が汗で湿る。
手錠をしたまま、農民にこうやって頭を下げる自分の姿など、前に想像できただろうか。普段はあまり意識していない貴族としての身分が、身体をわずかに震わせる。
「どうか、どうか……」
「大勢の命と言うが、わしらにとっては犯罪者にしか見えん」
村長の言うことはもっともだ。それが余計、震えをたしかなものに感じさせる。
「快く、はいはい、というわけにはいかんじゃろ。おまえさんは悪い人には見えんが、それだけの理由で貸すことはできん。地主様もそうだが、まず司祭様がお許しにならん。あれは悪魔のリンゴだとおっしゃるからな」
「では司祭様を説得すれば……」
「まずそこからかのう」
「ありがとうございます」
「なんの力にもなれんで、こちらこそすまなんだ」
ユーリーが立ち上がると、村長はすでに背を向けて畑を去っていた。他の村人もとうに姿を消しており、たったひとり、永遠に大地に取り残されたような錯覚におちいってしまった。