―春の章 14―


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 アリョーヒン伯爵邸を訪問したその日の深夜、ユーリーがペトルシキンに連れていかれたのはある小さな印刷所だった。個人が経営しているのだとすぐにわかる。ただ普通の印刷所とちがうのは、看板がないことだった。
 深夜にもかかわらず明かりを灯して作業に没頭している者がいる。作業場の隅にある机とにらめっこしながら、ペンを走らせていた。
「コンドラート」
 ペトルシキンが声をかけると、彼はすぐに椅子から立ち上がってユーリーをまじまじと見つめた。
 ユーリーも風変わりな格好の相手を凝視してしまう。印刷所で働いているというのに、服装はこぎれいで、ペトルシキンが身につけているような上等な揃えである。しかも長い茶色の髪を後ろで束ね、労働者が被るような布帽子がちぐはぐに思えて仕方ない。
「ペトルシキン、これ、どこの坊ちゃんだよ?」
 明らかにコンドラートの目は怪訝なそれだった。そんな彼を安心させるように、ペトルシキンは柔らかい笑みを浮かべ、言った。
「彼もぜひ手伝いたいそうだよ。あれを所持しているのを不審に思われたらしくてね、陸軍士官学校を休学してきたそうだ」
「あれか……。士官学校にまで波及していたのか」
「ああ。そこまで運動が広がったようで、僕としても嬉しい。ぜひ、力になってやってくれ」
「もちろんだとも。ええっと――」
 コンドラートが握手を求めてきた。ユーリーは素直にその手を握る。
「ユーリー・サラファノフです。よろしくお願いします」
「よろしく、ユーリー。僕のことはコンドラートでいいよ」
「はい、コンドラート」
 コンドラートは決まり悪そうに頭をかく。
「なんか調子が狂うなあ……。こんな坊ちゃんが参加するなんて。士官学校っていえば、貴族の子弟が通うとこだろう?」
「ええ、まあ、一応」
 ユーリーは言葉を濁さずにいられない。自ら進んで運動とやらに参加したわけではないから、自分のほうこそなんだか決まりが悪かった。
 ペトルシキンは「じゃあ、あとはよろしく」と言い残して、印刷所を足早に去っていった。彼は彼で秘書としての仕事がある。こうして抜け出すのも主人には内緒なのだろう。
 コンドラートは「好きなところで休んでくれ」と言うと、ふたたび机に向かった。急ぎなのかユーリーのほうをかえりみることなく、一心不乱にペンを走らせている。
 好きなところと言われても、初めての場所。しかもここは作業場だ。大量の用紙とインクの臭いと大きな印刷機があるだけで、身体を横たえるような場所はない。
 作業場をひととおり歩き、ユーリーはコンドラートの座っているそばまでもどってきた。机の上をのぞくと、そこには軍服姿の大男とそれに跪いている商人たち、それを見守っているのは骸骨という、風変わりな絵が光沢のある紙――よく見ると薄い金属板に描かれている最中だった。
「へえ……すごいな。君、絵がうまいんだ」
 ペンを走らせながら、コンドラートは答える。
「その特技を生かして風刺画をつくっている。なかなか評判だよ」
「風刺画って?」
「知らないのかい?」
「ごめん。あまりそういうのが出回らない環境だったから……」
「ああ、そうか。士官学校だもんな。あそこにこんなものが出回ったら、それこそ軍部の失態ものだよなあ」
 ほぼ完成していたらしく、インクで服を塗りつぶすと、一文を付け加えて彼はペンを置く。『帝国軍と商人と死神様はいつも仲良し』。鏡文字である。
 どういう意味なのか計り知れないが、皮肉なのはたしかである。風刺画というだけあって、絵は滑稽な筆致で描かれていたからだ。
「よし、あとは印刷すればいい。これで僕の仕事は終了」
 椅子から立ち上がったコンドラートは大きく背伸びをして、奥の扉を開けた。寝床があるにちがいない。ユーリーも鞄を持ったまま後をついていく。階段を上がり、ここで彼は止まった。
「空き部屋はないよ。床で我慢してくれ」
「もちろんいいですけど」
「じゃ、トーシャのところだな。彼と君なら気が合うと思うよ」
 コンドラートは左右それぞれ二つ並んだ扉のうち、左手奥の扉を叩いた。すぐに返事があって、ひとりの青年が顔を出す。
「トーシャ、新しい同志だ。ユーリーと仲良くしてやってくれ」
「うん、いいよ」
 あっさりと承諾したトーシャは、快くユーリーを部屋へ入れた。なかは作業所同様、古くて物が所狭しと置かれている。床で寝るには、まずこれらを片付けないといけない。
「ごめんね。ここ、物置にされちゃったんだ」
 穏やかにそう言う彼は、ユーリーより若かった。まだ少年の域を出ていないのが、夜目にもはっきりとわかる。
「いいさ。明日片付ければいいことだし」
「じゃ、おやすみ、ユーリー。毛布はあそこにあるから」
 と、トーシャは部屋の隅を指差した。
「おやすみ、トーシャ」
 毛布を取ると、それを肩からかけ、座り込んで目を閉じる。
 疲れた。
 つい半日前までは故郷に帰るはずだったのに……。
 こんなところできればすぐにでも出て行きたい。完全に危険が去ったら、さっさと実家にもどろう。あまりにもこの部屋は埃っぽくて、居心地が良くない。


 翌朝、耳慣れない機械の音で目が覚めた。床下から金属を叩くような音が絶え間なく、一定の間隔を置いて響いてくる。
 すでにベッドで寝ていたトーシャの姿はなく、ユーリーは毛布を片付けると階下へと移動した。二人の男が印刷を動かしている。ひとりはトーシャ、もうひとりは黒い巻き毛の青年だった。
 彼らは大きな金属板の上に用紙を乗せては、機械の取っ手を引いて上から押している。一枚刷り上ると次の用紙を送り、また押し、次の用紙を送りを繰り返していた。
 ユーリーは印刷された紙を見た。そこには活字と昨夜、コンドラートが描いていたあの風刺画が黒く浮かび上がっている。
 ユーリーは傍で取っ手を押している男に尋ねた。
「これは新聞なのかい?」
「うるせえな! 忙しいんだ!」
 相手の剣幕に冷や汗をかきながら、印刷機から距離を置く。トーシャも熱心に作業をつづけているから、話しかけても邪魔になるだけだ。かといって他に行くべき場所もなく、黙って見物するしかなかった。
 用紙をすべて印刷し終えると、次はそれを半分に折っていく。これなら手伝えると、ユーリーも彼らを真似て、紙を手にする。それが終わるとさらに一折し、まとめて隅の机の上に置いた。
 ここでやっと作業が終わったといわんばかりに、男は己の肩を叩きながら、話しかけてきた。
「おまえ、トーシャが言っていた新しい同志だって? いやに不似合いなツラしてるな。ここはどういうところか、知ってんのか?」
「ええ、まあ、そのつもりで来ましたから……」
 ここでも言葉を濁してしまう。成り行きでこうなってしまったのだから、覚悟もなにもあったものじゃない。
 インクまみれの手を作業着のズボンでこすり、男は不審な視線を投げかける。
「で、ペトルシキンには会ったのか?」
「はい。彼に案内されてきましたから」
「なんだそうだったのか。なら、信用できるな」
 ひとり納得するようにうなづく男に、ユーリーは問わずにいられない。
「あの、ペトルシキンさんって、どういう立場の方なんです?」
「ここの指導者。表の顔はお偉いさんの秘書やってるらしいが、それも資金調達のためだってな。給金がかなりいいらしいぜ。親父さんは医者だったって言ってたが、とうの昔に殺され――いや、怪我で亡くなったとか。詳しいことは本人も話さないから、俺が言えるのはここまでだな、新入。それより飯だ!」
 彼がそう言うと、トーシャが作業場を出ていき、すぐに盆を手にもどってきた。籠に入った黒パンとキャベツスープである。
「おい、二人分かよ?」
「仕方ないよ、ダニール。急なことで用意できなかったって、ボリスが言ってんだから」
「相変わらずここもシケてるな。だから有料にしろって、俺は言ってんだ」
「そんなことしたら、誰もビラを読まなくなるよ」
「だよなあ……。金のあるヤツはこんな運動に参加しねえもんな」
 二人分の朝食は結局、三人で分けて食べることなった。すまないと思いつつも、ユーリーはありがたく口にする。寮のものよりずっと簡素だったが、味は悪くなかった。
 それが終わると着替えをすませたダニールは、表へと出て行った。トーシャが言うには彼も普段は近くの工場で仕事をしているという。他の同志らしき男たち数人もダニールの後につづくようにして、印刷所を出る。やはり彼らも工場や商店で働いているのだ。
 彼らを一通り見送った後、次に作業場に出てきたのはコンドラートだった。薄汚い布の帽子でなく、つばの広い上質なものを目深に被っている。手袋をした手に杖を握りしめる彼の姿は、すっかりどこぞのインテリ紳士そのものであった。
「さあ、配るぞ!」
 自分に気合を入れるようにコンドラートはそう言い、ユーリーにもついてくるよう付け加える。
「君なら道行くご婦人方にも、労働者諸君にも好評だろうしね。――あ、これを」
 彼が指図すると、トーシャが机の隅に置いてあった黒い帽子を手渡してくれる。これもつばが広い。
「しっかり被ってくれ。顔があまり判別できないように」
「ええ」
 ビラ配りを手伝ってくれということだ。しかし顔を大っぴらにできないというから、いくらか危険が伴うことを意味している。
 ……早く実家にもどりたいのに。
 内心、ため息をつきながらもコンドラートの後をついていった。トーシャは印刷所の留守を預かるのだという。笑顔で見送ってくれた。

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