―早春(幕間) 03―




 職業軍人になる道を選んだことを悩んでいるオレグだったが、いつのころからアリサへの手紙の内容が変わっていった。
 前なら淡々とあったことを簡単に綴るだけだったのだが、『ユーリー』という名の友人が登場するようになって、文章が活き活きとしてきた。しかもその友人の失敗談がおかしくてたまらないから、誰もいない洗濯干し場にやってきては、アリサはひとり、腹を抱えて失笑してしまうのだった。
 この前は占い師にみてもらったのはいいが、答えがあまりにも抽象的すぎて困ってしまったと書かれていた。やはり占いごときで未来を決めるなど、娯楽にすぎないと締めくくってあったから、彼らしい。ここでも笑いがこみ上げてきた。
「よかった。オレグ様、お友達ができたんだわ……」
 昔から家庭の事情と負けず嫌いの性格で、オレグには友達と呼べるものは皆無に等しかった。素直な気持ちで話せたのは自分ぐらいだけだったのかもしれない。虚勢を張っているものの、根はとても優しい。ただ、その優しさを知るものが少なすぎて、余計な誤解を生んでしまう。
 それもきっと義母との折り合いの悪さが原因ではないのかと、アリサは最近思うようになっていた。何かあるたびに「あの女の血をひいているから」と決め付けられてしまえば誰だって反発してしまうし、自分自身に罪はなくとも心のどこかで常に孤独を感じてしまうだろう。
 昔ならそんなことまで考えが及ばず、ただ母子の罵りあいに怯えるだけだった。
 しかし文字を書くようなり、文章を読めるようになってから、アリサのなかで自分というものが目覚め始めた。これはおかしい、と疑問を抱くようになったのだ。


 そんな日々が過ぎ去って、季節が春の終わりに近づいたころ。
「アリサ、ここにいたのかい?」
 母がシーツの間を縫うようにして近づいてきた。慌ててエプロンのポケットに手紙を入れる。
「女主人様がお呼びだよ。大切なお話があるって」
「あたしに? 何を?」
「もしかしたらそろそろ……いや、女主人様のことだから悪いようにはしないよ、多分ね」
 母のその何かを含んだような言い方に、アリサは嫌な予感をおぼえた。
 しかも女主人だ。オレグと仲のよい自分は、彼女から好かれているとは言いがたい。
 その夜、アリサは急いで手紙を書いた。
 縁談が持ち上がってしまい、断ろうにも断れない状況になりつつあったからだ。
 ついこの前十八歳になったから、早く結婚しないと行き遅れになってしまうと、執拗に迫られてしまった。しかも相手は遠い町の金物屋の後継ぎ息子。店の規模は小さいが、下働きの身分でこんな身に余るような良縁の話は二度とないだろうと、両親まで説得されている。
 こんなことになるのなら、あの夜……。
 海を見つめながら語り合った、短い逢瀬のことを思い出さずにいられない。
 でも……。
 いくら好きでもあたしとあの人とでは、釣り合いがとれなさすぎる。
 しかも将来は陸軍士官として帝国に仕えるか、金貸屋の主人として生きる道が用意されている。
 ……どちらにしても、自分とでは。
 そんな迷いが頭を駆けめぐるのだったが、それでもオレグに手紙を書かずにいられなかった。

*****

 アリサは何度も縁談を断ったのだが、考え直すようにしつこく女主人と両親に説得される。以前はこんな娘じゃなかったのに、これも本を読むようなったからだと、母親が嘆くほどだ。
「だから下働きの女に学は必要ないんだよ!」
 炊事場で母と二人きりになるたび、そう罵られるのも日課になってしまった。
 それでもアリサは負けなかった。つい先日手元に届いたオレグの手紙が、アリサを勇気付けたからである。
――夏季休暇になったら私が直接、話をつけるから、心配するな。
 それは自然と将来のことをも暗示している。何度も自分自身は迷っていたのだが、この手紙が決心を固いものへと変えていった。
 そして待望の夏季休暇がやってくると、「若主人様のおかえりだ!」という受付係の男の声で、館はいっせいに賑やかになる。去年の夏よりさらにたくましくなったであろう、若主人を一目見てみたいと、台所で炊事をこなしている下働きの女たちがささやきあう。
 アリサも今すぐに駆けつけたかったが、まず家族との水入らずの時間を過ごすのが優先だ。喜びを胸に秘めながら、釜に火を入れた。
「アリサ」
 驚いて、声のするほうを見ると、大きな鞄を手にしたままの姿のオレグが、手招きをしていた。
「これから話をするつもりだ。一緒においで」
 呆気にとられ、その場で立ち尽くす。他の下働きの女たちが怪訝な顔で、アリサを見つめていた。
「でも、あの……」
「いいから。早いほうがいい」
 ごくりとつばを飲み込み、高鳴る鼓動を感じながら炊事場を抜け出した。無言で歩く彼の背中の後ろを歩き、緊張した面持ちで主人が待つ居間を目指す。
 覚悟はしていたつもりだけれど、本当にお許しがでるのだろうか……。
 釣り合わないと一笑に付されてもまったく不思議ではない。
 廊下で館の使用人たちと何度かすれちがう。どの顔も興味津々にアリサとオレグを見つめていた。
 扉を叩くと誰何の声があった。
「親父、私だ。オレグだ」
 すぐさま扉が開き、喜びいっぱいの主人が出迎えた。が、背後のアリサを確認するなり、眉をひそめた。
「なぜアリサがいる?」
「正式に婚約をしたいと思っている」
「は……? おまえ、正気か?」
「正気でなければ、とうに士官学校を辞めさせられているさ」
 アリサもその場にいづらく、きつく唇を結ぶことしかできない。
 ここで立ち話してもなんだからと、主人は二人を居間のなかへ入れた。そして女主人も呼ぶからと、その場にいた下男を使って店頭に行かせる。
 アリサは気まずい思いに耐えながら、主人に椅子をすすめられるまま腰を下ろす。その隣にオレグが座り、主人が二人に向かい合って腰を下ろす。
 煙草に火をつけながら、主人が言った。
「オレグ、ではおまえはアリサとともに、この商会を継ぐつもりなのだな?」
 すぐさまオレグは首を横に振る。
「いいえ。職業軍人として生きる道を選ぶ。この商売は私には向かない。その代わり、卒業を早めて、できるだけ早く自立するつもりだ」
「……やはりな」
 すでに察知していたのだろう、主人は怒りも悲しみも見せなかった。
「一度、羽ばたいた鳥は籠にはもどれん。おまえの成長ぶりを見ていると、俺はそうおもうよ。つい先日も剣術大会で準優勝を勝ちとったそうじゃないか。祝辞の書状が学校から届いていた。本当に金貸屋にはもったいないぐらいだ」
 オレグの表情が晴れやかになる。
「じゃあ……」
「どうせおまえのことだから、こちらから縁談を持ってきても、片っ端から断るだろ。アリサだって覚悟しているから、せっかくの良縁を無駄にしてしまった。ここまで絆が強いんじゃ、俺が入る隙がない」
 アリサも笑みをこぼさずにいられない。
「ありがとうございます、ご主人様!」
「おまえたちを見ていると、先妻のことを思い出すよ。あれも下働きの娘だったからな」
「え?」
 驚きの声を上げたのはオレグだ。
「秘密にしていたが、俺も若い時分、大恋愛をしてなあ……。おまえを生んで病気にかかってしまったのが、今でも悔しくてたまらない」
 アリサも初耳で、戸惑いながらも喜びでいっぱいになる。
 隣のオレグと顔を会わせ、小さくうなづいた。
 よかった。これで何も遠慮することはないのだと。
 扉が大きく開いた。女主人が怒りの形相でアリサを睨みつけ、主人の隣に座る。明らかに賛成しかねないといったふうに。
「あたしは嫌だからね。商会はオレグが継ぐことに決まっているし、そもそもその約束で、今日まで育ててきたんじゃないか」
 主人の顔がたちまち青ざめ、手にしていた煙草をもみ消した。
「お、おい! それはいつの話だ? この状況を見ても、おまえは反対するのか?」
「当たり前じゃないの。あなたがあの女の影ばかり追うから、あたしはとんだとばっちりだ。話もまともにきいてくれないし、仕事をこなしてもねぎらいの一つもない。毎日、毎日、ただのお手伝いみたいで苛立たない日はなかったわ」
「それはだな……」
「ふん。どうせまだあの女が恋しいんでしょ? でもこんな汚い商売、あたしの子供たちに継がせるのだけは嫌だ。だからそれがあたしとあなたの取引きだった、ってこと忘れたわけじゃないわよね?」
 すっかり図星だったようで、主人は苦々しい顔をしたままうつむいてしまった。
 アリサもどうしてよいのかわからず、息を呑んでその場を見守ることしかできない。
 そんな女主人に敢然と立ち向かったのが、オレグだった。表情ひとつ変えず、まっすぐに相手を見つめ、口を開く。
「それは私のセリフだ。あの女かこの女か知らんが、貴様の苛立ちを毎日、毎日、ぶつけられたこっちの身にもなってみろ。アリサがいなかったら、私はとうに狂ってたろうな」
 負けじと女主人は言い返す。
「なにさ。相変わらず口ばかり達者になって。生意気だからしつけをしてやったのさ。あの女もずる賢かったから、旦那を手玉にとることができたんだ」
「それがどうした。そのしつけでこうなったがの私だぞ。貴様と毎日やりあったおかげで、すっかり口喧嘩だけは一流だ。感謝している」
「よくもまあ、ぬけぬけと……この、化け物が」
「化け物?」
「ああそうさ。何をやらせても器用にこなせる。しかもこの前の剣術大会で準優勝だったそうじゃない?」
「それが?」
「ここまで完璧だと、化け物じゃないのかと誰もが疑ってしまうのさ」
「血がつながってないとはいえ、ここでもまた化け物呼ばわりされてしまうとはな。つくづく私は気味悪がられてしまうらしい」
 オレグが立ち上がった。アリサの手をとり、ここを出るよううながす。
 無言のままアリサはオレグの後についていくのだが、彼は扉の前で振り返るなり、こう言った。
「やっぱり私は金貸屋は嫌いだ。アリサと一緒に温かい家庭を築く。もう、私たちのことはかまわないでくれ」
「オレグ様……」
 それは事実上の絶縁宣言だった。
 大きな鞄を手にすると、オレグはあいさつもなしに商会を出て行く。
「まってくれ!」
 主人が二人を追いかけるが、それに構うことなく港町を歩いていった。

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