一度は商会を出ていったオレグとアリサだったが、追いかけてきた主人に再三説得され、ひとまず館にもどることになった。オレグはそのまま出ていっても寮に戻れば生活できるが、アリサの行き場がなくなってしまうからだ。
あと一年、アリサの身は主人が責任をもってあずかると宣言した。家族総出で祝福できないせめてもの、償いだと付け加えて。
その日からアリサは下働きの娘から、花嫁修業の娘へと変わった。元々、家事はほぼこなせるものの、職業軍人の妻になれば礼儀作法や上流階級の人々との交流がまっているからである。今のままではとてもではないが、奥方としてすべてを仕切ることはできない。
まだ夏季休暇は残っている。
オレグは暇を見つけては、アリサにいろいろなことを教えていた。少しでも帝都や世間のことを知ってもらうため、広大な帝国の地図を広げ、主要都市を指差す。
「ここは?」
執務机で腰を並べているアリサは素直に尋ねる。
「最東の地方イオノールの首都だ。首都といっても規模の大きな町ぐらいらしいがな。ここは約百五十年前帝国軍が東征した最果ての地で、先住民族が住んでいた。しかし彼らと折り合いが悪く、開拓民とたびたび騒動を起こしていたと、歴史書に記されている。なんでも先住民族は狩猟が好きで、開拓民の家畜をよく襲ったらしい。彼らは自分たちのことを、風の民と呼んでいる。ま、未開な地に住む者たちならよくある話だ」
素朴な疑問がわいた。
「どうして風の民なのに、狩猟が好きなの? 風だったら草原なんじゃない?」
「詳しくは記されてないが、狩猟をする前は南部の草原地帯で放牧をして暮らしていたそうだ」
「わざわざ寒い地方に移住するものかしら?」
「移住したのではなくて、移住させられたのだろう。東南部が帝国領地になったのは、三百年近く前の話だからな」
アリサは悲しくなってきた。風の民は追われつづけ、ついには誰も住みたがらない極寒の大地に居住をかまえ、下賎の者の仕事とされる狩猟をしているからだ。帝国は昔から狩猟が行われていたが、農業がさかんになるにつれ危険をともなう狩猟は身分の低い者たちへと、流れていったのだろう。
「かわいそうね。好きでこんなに寒いところに、住んでいるわけじゃないのに」
「仕方ないだろう。帝国軍に抵抗するからだ。歴史は残酷だが、強いものに逆らうと惨めな現実がまっているものだ」
とうとうと語るオレグだったが、ふたたび素朴な疑問が浮かんだ。
「でもオレグ様はいつも逆らっているじゃない?」
やや驚いた顔し、彼は言った。
「私が、か?」
「女主人様にもだし、学校の高貴な身分の人にもでしょ? 黙って頭を下げる姿、想像できないもの」
「……」
オレグの表情が苦いものに変わっていた。人差し指で己の舌先を触り、そしてまた苦笑した。
「いや。だったらとうの昔に、私は退学していたさ。不本意でもご機嫌を損なわないよう、気をつかっているつもりだ」
「信じられない……」
「これでも処世術を学んでいる最中だ。そんなものだよ」
己を突き放したようなその物言いに、アリサはひっかかるものを感じたが、帝都では自分の知らないことがたくさんあるのだろう。
二人は次の都市へと指先を移した。そのとき、扉を叩くものがいる。オレグが返事をすると女主人だった。
「なんだ? 用があるのなら、手短にしてくれ」
不機嫌丸出しでそう答えるなり、扉が大きく開かれる。そこにいたのは興奮冷めやらない面持ちの女主人だった。づかづかと中に入るなり、震える声で言葉を発する。
「た、大変だ……。縁談が…………」
アリサは反射的にオレグの腕を握る。
「しつこいな。アリサは私と結婚すると言ったはずだぞ」
「ちがう。おまえの縁談だよ、オレグ!」
「私に?」
怪訝なまなざしで、二人は女主人を見た。
「ああそうさ。使いの人が来ている。今すぐ話を聞いてくれと」
ついと視線をそらしたオレグは苦々しく吐き捨てるように言う。
「それもお断りだ。貴様、どこまで私たちの邪魔をすれば気がすむ?」
「馬鹿だね! イリューシン子爵の使いだよ! あたしたちが断れるとでも思っているのかい!」
「な、なんだって…………」
青天の霹靂といわんばかりに、彼の目が大きく見開いた。
「早く、早く!」
「しかし」
「子爵様だなんて、どう説明すりゃいいんだ!」
アリサの身体に震えが走る。動揺しながら立ち上がるオレグの腕をつかんだまま、自分も使いが待っているという居間へと歩いていった。
帝都の子爵の使いだけあって、乗ってきた馬車も使者の格好も、地方ではみられない気品さが漂っていた。しかもイリューシン子爵といえば、もっとも財力があることでも知られている。金貸屋など比べ物にはならない。
「これを。子爵様からの文でございます。あと、承諾してくだされば、後日支度金を持参いたします。メルクーシンの名をお継ぎになられるのですから、悪いようにはいたしません。ご安心くださいませ。こちらで後々の沙汰のないよう責任をもって、オレグ様がひとり前になられまでご面倒をみていく所存でございます」
さらさらと淀みなくそう説明しながら、壮年の使者は補佐の青年とともに居間のテーブルに持参した土産物と、子爵からの書状を置いた。土産は黄金の輝きを放つ茶器のセットである。
居間で話を聞いている主人と女主人は、言葉もなく唖然としている。
隣で座っているオレグも明らかに動揺しているようで、目を見開いたまま、子爵からの書状を見つめているだけだった。
アリサは震えることしかできない。
もし断ってしまえば、この後どうなるのだろう?
それにいつどこでオレグは、子爵令嬢と知り合ったのだろう?
縁談を一方的に持ち込むぐらいだから、かなり親しかったのではないか?
そんな不安を払拭するように、オレグの視線がアリサに移り、そして対面している使者に移った。
「悪いが、お断りさせていただく。私はレイラ嬢とは一度、しかも夜会でほんの数分しか会話をしていない。なぜ、このような話が舞い込むのか事態、まったく理解できない」
強い口調でそう話すものの、使者はまったく動じないようで、柔らかい表情を崩さないまま静かに答えた。
「それは承知いたしておりますとも。しかし子爵様はオレグ様のことを、ずいぶんとお気に召されているのです。お嬢様もオレグ様なら是非、生涯の伴侶としてお過ごしになりたいとも」
「だから、なぜそのような話が出てきたのだ、と私はたずねているのだ!」
苛立ちを抑えきれないオレグが、テーブルを拳で叩く。使者の笑みは崩れない。
「ホトキン少将閣下をご存知でごさいますか?」
「誰だ――」
と言いかけ、彼は口元を手で覆った。
「まさか。あのときの。しかし……あれはでまかせの嘘だったはず」
「後日、閣下が子爵様にあなた方のことをお話しされました。それは偽りだったと、すぐに判明したのです。しかし見事なまでのオレグ様の態度に、子爵様はひどく興味をもたれました。そしてそのお方が、お嬢様が見初められたあなた様だということもわかり、失礼ながらいろいろ調べさせていただいたのでございます」
「……なんてことだ」
「オレグ様は稀にみるほどの、文武両道の優秀な士官候補生だそうでごさいますね。しかも平民の出であられる。商売もよくご存知ですし、市井のこともお詳しい。子爵様の事業のお手伝いをされるに、これほど相応しい婿殿がおられましょうか」
「……」
「悪い話ではございません。それどころかリマンスキー家の皆様にも、大変喜ばしいお話でございますよ。オレグ様がメルクーシンの名を継げば、あなた方は平民ではなく、貴族階級の者となられるのです。もちろん、商売変えも容易いことでございます。子爵様のお力添え一つで、いつでも可能となるのですから」
「よしてくれ…………」
オレグは手を額に移し、うなだれるようにそのまま目を覆ってしまった。
アリサは気が気でない。
あたしたちどうなるのかしら……。
やっと、やっと望みがかなったというのに。
蒼白な顔のアリサを気遣うように、使者が言った。
「あなた様はオレグ様の妹様でございますか? よいお話でしょう?」
「ち、ちがいます。婚約者です」
ここで使者が驚くかと思ったが、予想に反してまったく動揺のそぶりを見せない。
「さようでございましたか。あなた様がオレグ様の婚約者」
「知っていたのですか!」
「はい。お嬢様はご存知でございます。このような事情も考慮されて、あなた様には一生、着飾ってお過ごしできるだけのお金を――」
激しく両手でテーブルが叩かれた。金の茶器が音をたてて震える。
「そんなもの必要ないっ!」
激昂しながら、オレグが立ち上がる。
「子爵様だかなんだか知らんが、私はいっさい興味はないからな! 勝手に私の人生を決めるな!」
それでもまだ使者は薄ら笑いを浮かべたままだ。
「あなた様の唯一のご欠点は、怒りを抑えられないその激しい気性にございます。それもわたくしどもが、責任をもって教育いたしますゆえ、どうかご一考を」
使者の視線は呆気にとられたままの、オレグの両親に移った。それがさらに腹立たしかったようで、彼は使者の胸倉をつかむ。
「私はそういう地位も商売も、いっさい興味がないといったろう? いいか、必ず子爵様に伝えろ。オレグ・リマンスキーは貴様らの操り人形になる気はさらさらないと、な」
ここでも使者はまだ負けずに、笑みをたたえたままだ。感情というものがないのか。
さすがのオレグもそれが不気味に思えたらしく、使者を解放すると、アリサの手をとって居間を出て行った。
しかし主人と女主人は悪くない話かもしれない……と小声で話していたのを、アリサは聞いてしまった。
地図を広げたままの執務机で、アリサは魂を抜かれたように椅子に座っていた。オレグはオレグで、憔悴しきった表情で壁に背をあずけている。
こんなことってあるのか?
それが二人の心中だった。
話をしようにも何からはじめてよいのかわからない。いくら断ったとはいえ、相手が子爵だからまた日をあらためて話を持ちかけてくるだろう。
そのまま断りつづけるうちに諦めてくれればいいのだが……。
「どうなるの……あたしたち」
やっとアリサが口にした言葉がそれだった。
「どうにもこうにも、断るしかないだろう」
「でも!」
アリサは椅子から立ち上がり、オレグの前へ身体を寄せる。
「あたし聞いたの。ご主人様たちが悪くない話かもしれないって言ってたのを」
「なんだって?」
彼は眉をしかめ、きつく唇を噛んだ。うっすらと血がにじんでいる。
「所詮、欲に目が眩むか……。これが私の親だとは情けない」
一筋の涙が頬をつたう。それは初めて見るオレグの涙だった。
「オレグ様……」
「俺は商品じゃない……」
「そんなことを言わないで。あたしは」
しかしアリサもどう慰めのことばをかけてよいのかわからず、その涙を指でぬぐってやることしかできなかった。
抱きしめられ口づけを交わす。それは激しく、アリサの息を奪ってしまいそうなほどだった。
ゆっくりと身体が沈んでいき、背中が床に触れた。夏物の薄手の上着のボタンが外れ、そのなかを覆っているブラウスがはだけていく。そして相手の重みが徐々に自分の身体にのしかかっていった。
抗うこともなくそのまま流れに身を任せるつもりだった。
これで少しでもオレグの気がすむのならそれでいい。
アリサは目を閉じ、胸に感じる熱いものを受け止めていった。
が、ふと身体が軽くなる。
瞼を開くと、シャツに慌てて袖を通すオレグがいた。
「くそ。見られてた」
「……」
急に恥ずかしさがこみ上げて、アリサも震える手で服を整える。
「あいつらどこまでも私を逃がさないつもりだな」
「あの使者の人?」
「その銀髪のお供だ。こういうのがやつの仕事なんだろう」
二人はわずかに開いた扉の隙間を凝視する。すでに人の気配はなかった。
オレグはあらためてアリサを力強く抱きしめると、優しく言った。
「私を信じて欲しい。必ずおまえと幸せになる」
「ええ、もちろんです」
「私のほうが承諾しない限り、成立しない話だ」
「はい」
「だから、それまでなんとか耐えてくれ」
「はい」
「ありがとう、アリサ」
「はい、オレグ様」
アリサも固く心に誓った。
何があってもこの日の約束を守り通そうと。
その三日後、オレグは帝都へもどるため旅立った。昨年より早めの出発だったが、一日でも早く卒業するためである。
―― 一年以内に必ず迎えに来る。
これがアリサが最期に聞いた彼の言葉だった。
早春〜おわり