―春の章 01―




 春とはいえ、まだ風は冷たかった。
 マナのいる村まで歩きつづけていたが、指先が冷たくなってしまい、道中何度かブーツを脱いでは、自分の掌で温めずにいられない。
 どうしてこんなに冷えてしまうのだろうと、靴底を見ると磨り減った穴ができていた。
「あーあ……。とうとう駄目になったか」
 ユーリーは落胆のため息をついた。
 靴を修理しようにも街までかなり遠いし、遠出させてくれるような境遇ではない。歩いて移動するには限界がある。自分で修理するには材料と道具も必要だ。そんなもの道中にあるはずもなく。
 空を仰ぐとツバメが鳴きながら目の前を飛んでいった。沼地が近いらしく、蛙の鳴き声も聞こえてくる。道のすそに立ち並ぶ松林の葉は濃い緑を枝先からみなぎらせ、遠くの杉林の色も鮮やかさが増している。春がやってきたのだと実感する瞬間だった。
 この先にはたしか千年杉が見えたはず。
 クラミフとオレグの遺体を運んだとき、彼はひときわ大きな杉を指してそう呼んでいた。
 千年杉から近い場所にマナのいる村がある。
 歩きつづけないことには先は見えないから、冷たい足の指先に我慢しながら進むしかなかった。さらに暖かくなれば、大地のぬかるみもなくなるから、それまでの辛抱だと。
 しかし。
 ユーリーは己の両手首を見つめ、複雑な思いにとらわれる。
「こんな格好じゃ、村に入れてもらえないかもしれない……」
 大きな手錠が邪魔で仕方なかった。自由が少しきくようにと、両手をつないでいる鎖は長めにしてもらえたものの、いつもなら造作なくできることが時間がかかってたまらない。ブーツを脱ぐのだって、身体をねじ倒すように動かさなくてはならないから一苦労である。
 これが所長とユーリーが取り決めた約束のひとつだった。
 本来、収容所の囚人たちは雪解けが終わるとすぐに、杉を伐採しにいかなくてはならない。農作業も重労働だが、森林伐採はそれ以上に過酷だといわれていた。なにしろあの巨大な丸太を運ばなくてはならないのである。
 切った木を近くの大河まで運び、いかだにして下流の木材問屋まで移動させる。それを売った資金で囚人たちの食料を購入するのだが、前の冬は大冷害で物価が上昇し、いつもの年の三割半ほどしか入手できなかった。
 だからそれを防ぐために、ユーリーは命を救ったあのジャガイモを作ろうと決心したのだが、肝心の種もないし栽培方法もわからない。おまけに所長は「これは特例だ。無論、君ひとりでやりたまえ」と言って、手錠をつけたままの格好で収容所を出されたのである。畑をつくろうにもまずその前の段階で、大きなつまずきを強いられた。
 所長は副所長とちがい、うるさいことは言わない。その代わり有言実行が信条の人だから、一度、取り決めた約束は何があっても、反故してもらえない可能性が高かった。
 いっそ、このまま逃亡して、オレグが遺してくれた資金を使って亡命してしまえば……。
 ふと、そんな思いが脳裏に浮かぶ。
 だめだ。だめだ、だめだ、だめだっ!
 もしここで何もかも捨ててしまったら、残された仲間たちはどうなる?
 再び冷害になってしまえば、今度こそ壊血病で皆、命を落としかねない。
 たとえうまく逃げ出せたとしても、亡命したことが知られてしまったら、あの収容所はさらに監視が厳しくなって、冬にも労働させられかねないだろう。常に働かせつづけ、動けなくさせるに決まっている。
 第一、この手錠がある限り、どこに移動してもすぐさま「犯罪人」だと、自ら吹聴して歩いているようなものだ。所長はそれを考えていて、あえてユーリーを自由にさせたともいえる。
 正直なところ所長も、冬の食糧事情に頭を悩ませているらしかった。囚人たちのぶんがないのはまだしも、監視する立場の自分たちのぶんでさえ足りなくなるのだ。これも農作物が育ちにくいこの地方特有の気候と、長年築き上げてきた帝国の体制のおかげである。
 農民たちは半世紀前まで【農奴】と呼ばれる存在だった。彼らは人である前に、地主や領主たちの【物】であったのだ。
 村単位の集団で農作業を行い、いったんすべての穀物を地主に納める。そしてあらためて地主が村単位で、その穀物を支給する形をとっていた。そうなると収穫の多寡に関わらず、農民たちの取り分は地主の一存にかかっているといっても過言ではない。
 大豊作でも戦争があれば農民たちの取り分はほとんどない。もちろん凶作だと餓死覚悟で冬をすごさなくてはならない。だからといって若者たちまで死なせてしまったら、翌年の収穫がなくなるから、そのあたりの匙加減も巧妙に計算されている。支給専用の枡の図面を、帝国から領主たちに発布しているほどだったという。
 そんな旧態依然の制度も徐々に時代遅れとなってきているから、農奴と呼ばれる彼らはいつしか農民となっていた。が、それはあくまでも表向きのこと。内実は農奴であったころと大差ない。相変わらず地主が絶大な権力を握っていたからだ。
 帝国がそんな具合だから、当然、囚人たちへの食料配布も惨めなものである。罪人だから仕方ないとはいえ、その尻拭いが収容所で働いている人々へもまわってくるのだからたまらないだろう。
 所長や副所長も平民である。もと一兵卒の叩き上げ軍人といっても、貴族たちが敬遠する仕事だから、当然のように平民出身の将校にまわってくるのだ。給金も手当てが多少付加される程度である。
 それでもまだ、農民たちよりはるかにましだ……というのも、彼らの口癖だった。
 ユーリーは歩きつづけた。
 千年杉が見えてくる。
 もう少しでマナたちのいる村があるはず。あの林の奥に。


 村はすぐに見つかった。雪のあるころとはちがい、丸太小屋の立ち並ぶ姿が遠くからでも確認できたからだ。
 林の間を縫い、マナの住んでいるあの小屋を目指す。親子がいた場所は、村のなかでももっとも街道に近い場所だった。
 さっそく戸を叩いてみる。返事はなかった。
 まだ日は高いから、狩猟か農作業でもしているのだろう。幸い、鍵はかかっていなかったから、中で待たしてもらうことにした。
 三日間野宿を強いられて疲れきった身体を休めるため、敷物の上で横になる。助け出されたときは好きになれない獣の臭いだったが、今は懐かしさでいっぱいだった。
 目を閉じるとたちまち睡魔の世界へと落ちていく……。
「村長の言ったとおりだ。彼がいる」
 野太い声でユーリーは目を覚ました。しかし身体が完全に目覚めず、横になったまま動けない。
「前より痩せたな。おとうが兎を捕ってきててよかった」
「その前に村長を呼ぶぞ」
 戸が開く音がした。足音がこちらに近づいてくる。
「村長!」
 マナが驚きの声を上げる。
「おやおや、わたしが来たのがそんなに嬉しいかい?」
「ああ! 村長から来るなんて、おかあの葬式のとき以来だ!」
「ふふ。それだけこの若者は精霊に愛されているのだよ。人々の祈りが強いともいえる」
 まただ。
 精霊が自分を好いていると聞かされているが、この目で精霊を見たことはない。
 どこにいるのかさえわからないというのに、その何か形にならないものたちに、自分は動かされつづけているというのか?
 精霊に愛されているのならば、どうして……。
 やはりユーリーの目に浮かぶのは、冷たい大地の上で息絶えたオレグの姿だった。
「さあ、起きなされ。まずはおまえの話を聞こうじゃないか」
 村長に優しくそう話しかけられると、ユーリーの身体は軽くなって、疲れが流れ去っていく。言われるまま、上体を起こすとあいさつもそこそこに、用件を話そうと思った。
 マナが茶を運んできてくれ、それを口にし、一息ついた。
 ユーリーは向かい合って座っている女村長に、自らの身上をまず話した。
「これを見てください」
 と、手錠のかかった両手を前に差し出す。
「僕は帝国に反逆の罪で捕らえられた政治犯です。そしてここから三日歩いたナザ村にある収容所の囚人。そしてこの冬、冷害で食べるものがなく、それで何人かの囚人たちが命を落としました」
 彼女は驚きもせず、嫌な表情ひとつ見せなかった。
「そうかい。それは大変だったろう。しかし人の道とはそういうものだよ。おまえたちはたまたま、その道を歩むことを運命付けられたにすぎない。次の人の道が美しい花で彩られるために」
 相変わらず村長の言うことは意味がよくわからないが、自分を励ましていることだけはわかった。村長の後ろで、マナと父親が笑顔でうなづいていたから、たしかである。
「でも命を落とした者が少なくすんだのは、この村でつくられたジャガイモのおかげなんです。秋にナザ村の村長が獣と穀物を交換したとき、運悪く獣がとれなかったから代わりに持たせたそのジャガイモです」
「ナザの村長はひどく嫌がっておったが、あのときも精霊の言葉がそうさせたのだ。これもまた、導きの印」
「ええ。おかげで僕だけでなく、仲間たちの命も救われました。だから、また冷害に見舞われても、生き延びるためにジャガイモを作ろうと思っています。しかし種もなく栽培方法も知りません。ナザ村の人々もジャガイモを忌み嫌って、作ろうとしません」
「ではおまえが?」
「そうです」
「無理だ」
「……え?」
 村長の言葉に愕然とする。
 おかしいではないか。精霊に呼ばれているから、自分はここまでやってきたのではなかったのか?
 それがジャガイモを作るためではないのならば、他に何の意味がある?
「おまえひとりでは無理だと言ったのだ。おまえは太陽だ。あまねく人々を照らす命運を持ち合わせておる」
「しかしナザ村ではジャガイモは悪魔の食べ物と呼ばれてます。収容所では僕以外の者は農作業を手伝うことができません。他に誰を頼ればいいと?」
「それもおまえが決めることだ」
「決めるって……」
 ユーリーは落胆せずにいられない。
 せっかくここまで来たというのに、栽培方法どころか、栽培そのものを否定されてしまうのでは意味がないではないか!
 それでも村長の顔から笑みが絶えることはなかった。
「よくよくおまえさん自身の話したことを考えてみなされ。何のために栽培しようという? 何のためにここまで来たのだ? わたしは言ったろう。おまえは太陽だと」
 わからない。
 考えても考えてもわからない。
 混乱するだけで、答えらしきものは出てこなかった。
 村長が音もなく立ち上がる。
「もう充分話した。わたしは帰るぞ」
 まだまだ納得できないユーリーは、後を追うように立ち上がった。
「待ってください! 僕はどうすれば!」
「ゆっくり考えてみなされ。今日はもう日が暮れるから、ここに泊めてもらうがいい。また日が昇れば、精霊が教えてくれるかもしれん」
 それっきり村長は言葉を交わすことなく、マナの家を出て行く。表にひとりの青年がいて、村長を守るように後ろを歩いて去っていった。
「ムルハンだ。珍しい」
 マナがユーリーの隣で二人の背中を見送りながら、ぽつりとそう言った。
「誰だい?」
「村長の末息子。よく旅をする。でもあたしはあまり好きじゃない」
「意地悪なのかい?」
「ううん。優しいけど……でも」
 マナにしては珍しく複雑な顔をしていた。それが何を意味するのかユーリーには計り知れないが、この村でも人間関係に悩むことがあるのだと、逆に親しみを感じずにはいられなかった。


 翌朝、ユーリーはマナとともに村長の家を訪れることにした。
 村長は「ひとりでは無理だ」と言っていたが、そのまま手ぶらでもどることはできない。所長との約束もあるし、たとえ無駄に終わってもジャガイモの栽培に挑んでみることに決めた。
 何もせず後悔することだけは避けたい。
 ユーリーはそう思う。
 オレグがいたころは彼を手伝い、ときには忠告し、そして行くべき道を決めるのも彼だった。それでよかったし、何より彼の決断力は周囲の者たちをうなづかせるだけの力強さが常に備わっていた。
 悪く考えれば有無を言わさず、従わされていたということにもなる。それで結果が望みどおりのものでなくとも、彼がそう決めたのだからと、いつも自分に言い聞かせていたのも事実である。
 オレグが自分に遺した手紙もそうだった。彼はすでに亡命することを決めており、自分はそれを知らされないまま、仲間を救おうと食料の買出しへ赴いていた。
 どうして自分には言ってくれなかったのだろう、と後悔してしまう反面、お互いの価値観が異なるからそうなってしまったのかもしれないと、悲しくなってきたこともある。
 オレグはすべての人々が等しくなる国を望んでいたが、それはあくまでも理想にすぎなかったのではないか。
 実際、彼の行動原理は感情で始まることが多かった。
 それは人々のためではなく、あくまでも自分自身のため。
 外見上は仲間のために行動していたが、その内実はごく限られた者のために作られた決断だったのだ。
 そんな馬鹿な。あのオレグが……。
 わからない。やはりわからないことばかりだ。
 オレグを失ってから初めて、見えてきた真実。そんな自分の心に戸惑いも感じずにはいられない。
――進むべき道が同じなら問題はないですが、力ありし者がそれに疑問を持つときが、あなたたちの。
 たしか占い師はそう告げたはず。記憶は曖昧だが、なぜかその言葉が忘れられない。
 あなたたちの――。その次は?
 永遠の離別。
 オレグがあの自分に遺した手紙をしたためたとき。
 たとえ自分を騙し通して亡命できたとしても、その後に彼の本心を知ってしまえば、どんな思いがしただろうか。
 嬉しいだろうか。悲しいだろうか。
 今さら答えが出るはずもないが、冷静に考えてもともに同じ道を歩める自信はなかった。
 これを人は疑心と呼ぶのだろう。
 突然、胸が熱くなる。
 感情から来るものではなく、本当に熱くなってきた。
 ユーリーは道すがら、首にぶら下げている桃色の小石を取り出した。見た目は変わらないものの、やはりかなりの熱を帯びていた。
 疑ってしまったことを、オレグは悲しんでいるのだろうか……。
「でも僕は謝らない。君は嘘をついていたのだから」
 強い意思を持ったまま小声でそう告げると、頭の中に「すまない」という声がいくつも響いてきた。
 ふと、夢で抱きしめられた感触がよみがえってくる。
 とてもではないが、彼に悪気があったとは到底思えない。
 何かの行き違いだったとしか考えられない。
 きっとそうだ。そうにちがいない。
 それとも。
 自分の知らないところで、どうしようもない何かがあったのだろうか。
 いつもともに行動していたわけではないし、時にはあのイリューシン子爵とともに行動していたのだから、自分が見ている世界とはまったく別の世界を、否応なしに見せつけられても不思議ではない。
 それはいったいどんな世界だったのだろう?
 ユーリーはそっと小石を胸にもどすと、祈りを捧げる。
「どうか彼のこの悲しみが癒されますように」
「ユーリー、どうしたんだ?」
 前を歩いていたマナが振り返る。
「オレグへの祈りを少し、ね」
「オレグって、あのもうひとりの?」
「時々、話しかけられるんだ」
「まだここにいるんだね、あの人」
「そうだね」
「すごくユーリーのことが好きなんだ」
「うん」
 以前ならこんな会話をしている自分が信じられなかっただろう。
 それだけこの村の掟に馴染みつつあるのかもしれない。
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