―春の章 02―




 村の中央にある広場には、犬たちが元気に駆け回っていた。前とちがうのは雪が草に変わっていることだ。萌えだしたばかりの緑がすがすがしい。
 犬たちがこちらに駆け寄ってくる。たちまちユーリーは犬たちのあいさつの洗礼を受ける。
「うわっ! く、くすぐったい!」
 飛びついた犬たちに顔を舐められてしまった。犬たちの身体は大きく、しかも五頭もいるから、あいさつされるほうはたまったものではない。
「あはは。ユーリー、犬に好かれてるぞ」
「ひいっ! どうしてだよ!」
 笑いながらマナが答える。
「精霊に好かれてるからだ。村長が言ったろ」
 ここでもまた精霊に好かれていると言われてしまった。
 だけど肝心の本人には何も見えないし、聞こえないんだよなあ……。
 ひとしきりのあいさつが終わると、村長の家に向かう。
 ユーリーは戸を叩こうとしたが、マナに止められた。
「そんなことしたら失礼だ」
「え?」
「家にいるかまどの精霊が逃げるぞ」
「へえ、そうなんだ」
 納得はしていなかったが、これも彼ら流の礼儀なのだ。無用心だな……と内心思いながら、戸を開けた。
 奥から人が出てくる。村長ではなく、彼女を補佐する役目の中年女性だった。彼女もまた不思議な能力が備わっており、次期村長になるのだとマナが教えてくれたことを思い出す。
「村長は?」
 マナがそう尋ねると、補佐役は微笑んだ。
「ムルハン様と畑へ出かけた。お話があるとか」
「もしかしてユーリーのことか?」
「さあ。わたしはきいてない」
「なんだ。村長のお許しもらおうと思ったのに」
「なら畑へ行ったらいい」
「いいのか?」
「客人があれば案内するよう言われている」
「なんだ。やっぱりユーリーのことだ」
 マナは白い歯を出して笑うと、ユーリーの手をとって駆け出した。あいさつする間もなく、ユーリーは村長の家を去り、広場を横切り、林を駆け抜ける。
 手をとられるのはいいのだが、両手を手錠が拘束しているため、前方へつんのめった姿勢で、走らされてしまう。いつつまずいてしまってもおかしくない。
 視界がかたむいた。地面がすぐ近くなって、したたかに身体を打ちつけた。
「ユーリー!」
 慌ててマナが身体を起こしてくれ、なんとか立ち上がる。
 腕と膝が痛むが、大した怪我はなさそうだ。よかった。
「ごめん」
 困った顔で謝るマナの頭をぽんと叩く。
「いいさ。手錠は仕方ない。僕が悪いのだから」
「ユーリーは悪いのか? あたしはぜんぜんそう思えない」
「人は見かけで判断しちゃいけないよ。こう見えても、僕は少し前まで士官学校にいたんだ。軍人になるためにね」
「ユーリーが軍人?」
 マナの目が大きくなった。明らかに驚いている。
「もしかしたら、手錠をかけるほうの人間になってたかもしれないし。どちらにしても、君たちが思っているような善人じゃないよ、僕は」
「精霊に好かれてもか?」
 ユーリーは苦笑してしまった。
「さあね。僕の住む世界では精霊というものは、いないことになっているから」
「寂しい世界だな」
「うん。そうかもしれない」
 寂しい世界。
 言われてみれば、自分のいる世界はそうなのかもしれない。
 神はいることになっているが、神の声は聞こえない。それどころか、いつも過酷な試練をお与えになる。それでも、何かにすがらずにいられないから、神へ祈ってしまう自分もいる。
 しかし精霊は常に自分のそばにいて、悲しいとき何度か自分を癒してくれた。絶対の存在ではないが、ふと感じることがある。大地に風に木にと。
 そして、天界へ旅立ったはずの死者も。
 そうだ。たとえ精霊の声は聞こえなくても、オレグの声は聞こえる。それは時には力強く、時には優しく、時には悲しいものだ。神のように完全なものではないから、ともに生きていると思わずにはいられない。
 もう少し彼のことを信じてみよう。
 ユーリーは生じていた疑念を心の奥底に閉じ込めることにした。疑ってしまう自分も嫌だが、疑われてしまうオレグはもっとつらいだろう。
 本当に自分のことを信じていなければ、こうして見守ってはいないはずなのだから。
 突然、林が開けた。ユーリーの目に広い畑が映る。
 ナザ村ほどの規模ではないが、林を切り開いて開墾した土地を耕している男女がいた。数えてみると六人いる。そのなかに村長とムルハンはいない。
「畑ってここだよね?」
 ユーリーはマナに尋ねた。
「そうだ」
 マナはぐるりと周囲を見渡し、ある一点を指し示した。そこは大きな岩が剥き出している畑の隅だった。
 ムルハンが村長になにやら頼みごとをしているのか、しきりに手を合わせてはお辞儀をしている。村長はまったく動く気配がなく、承諾しなさそうだ。
 ユーリーがマナとともに二人の前にやってくると、すぐさまムルハンが膝を折り、その場で礼をした。帝国流の臣下たちがとるそのあいさつが不思議でならない。こんな畑でしかも先住民の彼にされてしまうとは思いもよらなかった。
「あの、堅苦しいあいさつはいいですから」
 ユーリーがそう言うと、ムルハンは立ち上がりあらためて握手を求めてくる。
「母からお聞きしました。あなたが大地の精霊に呼ばれた人なのですね。お会いできて大変光栄です」
「それはどうも……」
 ユーリーは差し出された手を両手でとった。手錠だから仕方ない。
 この村の人とは思えない流暢な標準語に、しばし戸惑う。旅をよくするとマナは言っていたから、村にいない時間のほうが多いのだろう。
 村長が静かに言った。
「やはりおまえは来たのだね。ならば持っていくがいい」
 すぐさまムルハンが反論する。
「だめだ。村にある種芋を分けてしまえば、この冬はどうするんだ?」
「精霊がそう告げておる。おまえは口出しするな」
「タダで分けろというのか? せめて金でもあれば、街へ他の食料を買出しに行くことができるんだ。出直してもらってきたほうがよくないか?」
「それこそ卑しき者の言葉。精霊がおまえを見放すのも時間の問題」
「だから……」
 さらに反論しようとしていたムルハンだったが、困った表情のユーリーと目が合うと、苦笑して詫びを入れる。
「すみません。お見苦しいところを」
「いえ。それより、本当にいいのですか、種をいただいても?」
「早く持っておいき、太陽の人よ。わたしらのことはかまわんでおくれ」
 村長はそう言って、マナに耳打ちをする。
「はい、村長!」
 マナは岩の反対側――畑の隅へ駆け出していった。そこにはいくつかの麻袋が無造作に置かれており、そのなかの二つを手にすると、楽しそうに走ってこちらへもどってくる。
「はい、ユーリー!」
 元気良く差し出された麻袋を受け取ると、村長はうなづいた。
「そう。それでよい。あとはムルハンに教えてもらえ」
「ありがとうございます。種にしては重いですね……」
 ずっしりと手首に重さがかかる。両手の自由がきかないから、肩にかつぐこともできない。それを見かねたムルハンが麻袋をかついで、畑の隅へと移動してくれた。


 驚いたことにジャガイモには種というものがなく、芋を植えて栽培しているという。
 ムルハンはナイフで芋を二つ、あるいは三つと切り分けるとそれを耕した畑に埋めていった。
「種芋が大きい場合はこうして切るんだ。芽が均等になるように。埋める深さは人差し指ぐらいかな。時期は今ぐらいの気候が適している。早すぎても遅すぎても芋の成長が小さくなってしまう」
 ムルハンの説明は簡潔でしかも理解しやすかった。村長が彼を推したのもうなづける。
 ユーリーも見よう見まねでジャガイモをナイフで切り分けるが、なにせ両手が拘束されているからなかなか思い通りにできない。何度か芋を地面に落としてしまった。
「無理しなくていい。その代わり私がやっていることを、よく覚えてくれ」
 そう言いながら、ムルハンは落ちたジャガイモを拾うと、ユーリーからナイフを返してもらい、素早く切り分けた。そして畑に埋める。
 さきほどまで反対していたはずなのに、とても協力的だ。それがユーリーには奇妙に映ってしまう。
「あの……。いいんですか、本当に?」
「なにが?」
「僕がその種芋を持って帰ってしまったら、あなたたちが困るのでは?」
「そうだ」
「だったらどうして」
「私は反対だが、村長の意思だ。逆らうことはできない。ここでは血のつながりではなく、重要なのは精霊の言葉を聞ける巫女の意思だから。たとえそれが不条理なものだとしても、私たちは逆らうことはできない」
「村長が絶対なのですね」
「ああ。君にはわかりづらいだろうが、こうやって私たちは現在まで生活している」
 淡々と教えてくれるムルハンに笑顔はなかった。かといって怒っている雰囲気も伝わってこない。
 植え付けの説明がひととおり終わると、次は芋を貯蔵している蔵へと案内された。中は暗く、目が暗さに慣れるまでしばらくかかった。
 木箱が見える。その中にジャガイモが入っていた。種芋として渡されたものより大きく、これは食用だとムルハンが教えてくれる。
「芽には毒がある。死に至るほどではないが、食えなくなるからこうして光を遮って、保存している。逆に種芋は、植える半月前から光にあてなくてはならない」
「じゃあ種芋にするには芽を出して、そうじゃない食用は暗所で保存ですね」
「これがもっとも大切なことだから、決して忘れるんじゃない」
「はい」
 蔵の戸を閉め、ムルハンが次に向かったのは馬小屋だった。冬は犬ぞりが移動手段の彼らだが、雪がない季節は馬や驢馬をつかっている。
 ムルハンがシャベルで馬糞をすくい、バケツに入れ、それを手にして再び畑にもどっていった。まだ耕す前の固い畑に鍬を入れ、馬糞も混ぜ込んでいく。
「肥料は必ず入れるように。ただあまり入れすぎると芋が固くなるから、気をつけてくれ。あと、これが重要なんだが……」
 ムルハンは鋤を下ろし、周囲を見回した。首を横にふる。
「だめだな。まだ土寄せができる芋がない」
「土寄せ?」
「さっきも言ったとおり、芋に日光は禁物だ。ある程度成長したら、植えた芋に土を被せなくてはならない。その作業をさぼってしまえば、収穫しても食えた代物にはならないだろう」
「それはどれぐらいの時期なのです?」
「そうだな……。次の十六夜、君たちの暦では三週間後ぐらいかな」
 三週間では再びここを訪れる前にすぎてしまうだろう。ならば、とムルハンは木の枝を畑に突き刺し、その周囲にシャベルで土を盛っていった。
「しっかり盛ってくれ。かといってあまり盛りすぎると、今度は病気にやられてしまう。これぐらいの加減で……」
 ユーリーももう一つの突き刺された枝に、ゆっくりと土を盛っていく。両手で土をすくい、なんとか感覚をものにしようとしっかり記憶する。
 けれど自信はなかった。悔しいが、農作業そのものに触れたこともなく、新しいことを一度に覚えられるほど器用ではない。もしこれがオレグだったら、たちまちのうちに己のものにして、頭に叩き込むことができたにちがいなかった。
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