身代わり令嬢の失恋 2




 どっしりと威容をたたえる白い石の階段を上がると、これまたゴシック様式を象徴する優美で繊細な花と蔦模様が彫刻されたドアがまちかまえていた。ジョーンは足の震えを感じる。
 奉公しているエルダー家の正面玄関を使ったことはない。使用人がそこから屋敷に入ってしまうだけで、不注意ではすまされない罰がまっているためだ。
――あ、あたしがここにいていいのかしら……。
 ライザについてきて欲しかったが、彼女は今、にわか侍女になっているため、一足先に裏口からなかに入っている。たよることは不可能である。
 喉のかわきを覚えながら、呼び鈴を引っ張った。
 一分もしないうちにドアが重い音を立て、時代遅れのテールコート姿の男が顔を出す。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
 あらかじめライザに指示されたとおり、バッグから取り出した名刺を銀盆の上に置いた。
 禿げ上がった中年男が名刺を確認する。物腰低く、ジョーンをなかへと案内する。
「ミス・エルダー。少々おまちくださいませ。奥さまに取り次いでまいります」
「は、はい……」
 エルダー家より立派な玄関ホールだ。屋敷の執事にすすめられるままソファに腰かけ、ジョーンは落ち着かない数分間をすごす。
 ドーム状の天井には天使の絵が描かれ、壁には絵画、マントルピースには彫刻、食器棚の陶磁器などがこれでもか、と青い顔をした客人を出迎えていた。
 白地に青の模様が描かれた皿だが、たしかあれはアリタヤキといって相当高価なはず。もし掃除中に落として割ったら、給金の前借りどころじゃすまされない代物だ。扱いには細心の注意を払いなさい――と、初めて居間の掃除をするまえに、メイド頭である家政婦から忠告されたのを思い出した。
 それが一枚どころじゃなく、目で追って数えてみたら二十八枚もある。
――とってもお金持ちなのね、プライスさんのところって。
 ジョーンはほう、とため息をついた。
 同時にこんな思いが胸にわいてくる。
――なのにライザお嬢さまったら、縁談をぶち壊すおつもりだなんて。なんてわがままなのよ。あたしたちなんてこのドレスすら給金を貯めても買えないほど、貧しいのに。内気でも不細工でも若いんだし、いいじゃない。
「おまたせいたしました、ミス・エルダー。奥さまがおまちです。こちらへどうぞ」
 声をかけられたジョーンは心臓が止まりそうに驚いた。足音を立てず執事がやってきたのである。
「は、はい……」
 慌てて歩き出したものだから、自分のドレスの裾を踏んでしまったことに気がつかず――よろめいて床にたおれた。
「ミ、ミス・エルダー! だいじょうぶですかっ!」
 うわずった執事の声。
 床に手をついた状態でたおれたため、怪我はないようだ。ゆっくりと立ち上がって、にっこりと微笑んでみせる。
「だいじょうぶですわ。おほほ……」
「ご気分がすぐれないとか?」
「いいえ。健康そのものですわ!」
 と、拳をにぎって元気いっぱいのポーズを作ったのだが。
「……」
 目が点になっている執事。
――いけない。つい反射的に!
 またもジョーンはひきつった微笑でごまかすしかなかった。
 頭を打ったのかと思ったのだろう、「油断はいけません。医者を呼んでまいります」と告げて、執事は玄関ホールを全速力で去っていった。
「きみ、落とし物だよ」
 背後から声がして、振り返る。花の刺繍がされた赤いバッグを、青年に手渡された。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
 青年は笑みを返す。
 ジョーンが一瞬にして頬を染めるほど、彼は端正な顔立ちをしていた。輝く金髪に透き通るような青い瞳。だが背丈のある痩身は、薄汚れた農夫の格好で台なしになっていた。
 屋敷で奉公している園丁にちがいない。ジョーンが転んだのを目撃して、ようすをうかがいにやってきたのだろう。
 相手が使用人だと認識したとたん、ジョーンの緊張がゆるむ。
「あの、このお屋敷の若さまって、どんな方なんですか? あたし、縁談とかそういうのまだ興味なくて」
 園丁らしき青年は、一瞬、眉をしかめるのだが、すぐまた微笑を取りもどしつつ答えてくれた。
「おお、それはさいわいですね。ここの若さまも、まだご結婚に興味がないようすですよ。適当に世間話していれば、無事、向こうからお断りするはずです」
 ジョーンの目頭が熱くなる。プライス家へ向かう道中で始まった悩みが、彼のひと言で氷解したからだ。縁談をどう穏便にぶち壊せばいいのか、ずっとそればかり考えていた。
「ああ、よかった。よかった……。これであたしの荷が軽くなる……」
「よほどご結婚がいやなのですね。たしかにお偉いさんたちは、家柄や血筋やそういうややっこしいものがからんで、結婚相手を決めるのが一般的でしょうし。あなたの気持ちもわかりますよ」
「あなた、園丁なのに、好きなひとと結婚できないの?」
「園丁?」
「ちがうの?」
「ちがう……どころか」
 青年はいったん言葉を切り、微笑んで言った。
「僕の仕事は庭いじりと野菜作りです。たしかに園丁ですよね。あなたがそうおっしゃってくれて、思い出しました。あはは」
 と、陽気に笑うものだから、ジョーンもつられてちょっとだけ笑った。
「それでは、ミス・エルダー。僕はもどります。ごきげんよう」
「ええ、ごきげんよう」
 軽快な足どりで青年は玄関ホールを出ていった。
 庭に向かうのだろうが、正面玄関を利用するなんて、見かけによらずずうずうしい園丁である。


 執事が呼んでくれた医者の診察はすぐに終わり、心配顔だったレディ・プライスの表情が安堵に変わる。お茶の支度をしているから、呼ぶまで客間で休むよう言われた。
 階下にいたライザも侍女として、ジョーンを見守っていたのだが、レディ・プライスが退室するなり、苦い言葉を耳打ちする。
「あまり奥さまのまえで悪目立ちしないで。エルダー家の評判が落ちてしまいますわ。あくまでもここの若さまを失望させるのが、目的ですのよ」
「はい、お嬢さま」
「いい、計画を台なしにしたら、わたしが許しませんから」
「はい、お嬢さま」
「しっかりなさいな。おまえにはわたしのお気に入りのドレスを与えたのだから、その恩を忘れないで」
「はい、お嬢さま……」
 ジョーンは複雑な気分になる。
――いつ、あたしがドレスが欲しいなんて言ったのよ?
 身代わり作戦に同意したわけでもなく、立場が弱いから仕方なく実行しているにすぎないのに。
「階下って居心地悪いわ。このわたしに気安く話しかけてくるから、無視して編み物をしているのよ。なにが『お高くとまってる』だわよ。気分が悪いったらないわ。この件がなかったら、叱り飛ばしてやるのに。さんざんな縁談ね」
 厳しいまなざしを残したまま、ライザは客間を出ていった。居心地が悪い階下にもどるために。
 それから五分もたたないうちに執事がやってきて、居間へ案内してくれる。
 屋敷の居間は女主人の聖域とされている。くつろいで編み物や刺繍を楽しむだけでなく、大切な客人を茶会に招く部屋でもあり、居間の美しさと居心地のよさが女主人の評価につながる。
 だからレディ・プライスの趣味に満たされた居間は、彼女そのものを体現しており、そこはジョーンをときめかせるほど華やかだった。
 部屋のいたるところに切り花が飾られ、アネモネや薔薇の香りに包まれている。大きな窓からさんさんと日光が降りそそぎ、白で統一された家具たちが居間をいっそう明るく見せていた。ワイン色の壁にごちゃごちゃ絵画を飾っているエルダー家とは大ちがいだ。
「さあ、おかけになって」
「は、はい」
 後ろで控えていた従僕が椅子を引き、ジョーンが腰掛けると、執事がお茶をカップに注いだ。
 ひと口飲んだだけで、その香しさに夢心地になる。こんなおいしい紅茶、階下にいるとまず飲めない。
「ミス・エルダー。このまえお会いしたのは、何年まえだったかしら。まだあなたはとっても小さくて、ずっと家庭教師にしがみついていたのが忘れられませんわ。お姉さまはお元気?」
「ええ、元気です」
「つい先日、男爵家とのご縁が決まったとお聞きしましたわ。さぞかしおきれいになられたでしょうね。お会いできなくて残念ですわ。ごいっしょにいらっしゃればよろしかったのに」
「姉は忙しいものですから」
「縁談のお話、いやだったらお断りしてよろしいのよ。イアンったらとんだ変わり者で、当分、結婚するつもりはないって言いはるの。そんなこと主人が許さないって、わたしは説得しているのですけれど、とても強情で、手を焼いていますの」
「そうなんですか」
「ええそうよ。社交界にも一切顔を出さないし、わが家にはイアンしかいないでしょう? だからといって無理に結婚をさせても、そのあとが問題ですわよね。うまくいかないふたりを見ているのも、耐えられないでしょうし……。あら、愚痴になってしまいましたわね。失礼あそばせ」
「はあ……」
 ライザが言っていた噂は真実だったらしい。長男イアンはとんだ変わり者のようである。そのイアンに結婚願望がまったくなくて、ジョーンにはかえって幸運だ。
――あの園丁さんも同じこと言ってたわね。
 それにしてもイアンという御仁はとんだ、困り者らしい。毎日こんなおいしい紅茶が飲めるというのに、なにがそんなに不満なのだろう。
 かえって興味がわいてきたジョーンだったが、ひどくお腹がいっぱいになった。
 あまりのおいしさに立て続けに四杯も紅茶をおかわりし、タルトやスコーンを食べてばかり。奥さまとまともな会話らしい会話をしていなかった。
 これはいけない、と話題をふろうとするのだが……。
――あたし、このひとたちと、共通点がなにもない!
 階下やメイド仕事の話ならともかく、社交界の噂なんて知りもしない。
 ない知恵をしぼってようやく出た言葉がこれだった。
「あの、レディ・プライス。素敵なドレスですわね」
「まあ、お褒めいただき光栄ですわ。ミス・エルダーのドレスはもっとお似合いですわよ。このまま舞踏会へお出かけなさったら、たくさんの貴公子から、プロポーズをされるんじゃなくて。うふふ」
「うふふ…………」
 どう切りかえしてよいのかわからず、ひきつった笑みを浮かべるしかなかった。
 そんな窮屈なお茶会に、ようやく主役が姿を現す。
「まあ、イアン。あなたどうしていつも、お客さまをたくさんおまたせするの」
「仕方ないだろう。夏場は庭の草取りで忙しいんだ」
 ジョーンは息をのむ。
 なぜなら、フロックコート姿で入ってきた青年紳士は、あの園丁だったからだ。
 そしてあまりの失言を思い出し、顔から湯気が出そうなほど赤面するのがわかった。


「だましたつもりはなかったんだが。格好が格好だったからなあ」
「とってもお似合いでしたもん。わかるほうがすごいわ」
「エプロン姿でいるほうが長いから、たしかにそうだろうな」
 イアンはそう言って、照れくさそうに笑った。
 ジョーンはプライス家の若さまであるイアンに連れられ、屋敷の庭を散歩していた。
 イアンが手入れしているという庭は、初夏の花々にあふれ、風が吹くたび新緑の木々が葉をざわめかす。さわやかな空気がふたりのあいだを駆けぬけていった。
「居間に飾る花は僕が育てているんだ。見てみるかい?」
「プライスさんが? ええ、ぜひ!」
 花々や木々が生い茂る自然庭園の小路をしばらく歩いていくと、ぱっと景色が開けた。色とりどりの薔薇が咲いている。地面だけでなく、アーチを形作った蔓薔薇が、ジョーンを出迎えた。
 どこを見ても薔薇、薔薇。これだけの数を管理するのは、大変にちがいない。しかも手入れが行き届いているようで、どの薔薇も鮮やかな色をしていた。
「なんてきれい! エルダー家の薔薇より、いきいきしてる!」
「きみのところのお屋敷の園丁が苦手なのかな」
「お野菜はたくさん作ってるわ。お花まで手が回らないって、ときどき愚痴っているのを人づてに聞いたことがあるの」
「まあたしかに、食べることが優先なのはわかるな。人手が足りなかったら、僕もそうしていると思うよ」
「ねえ、もっと見ていいです? 奥にあるオレンジのとかかわいい」
「もちろんだとも。あれは貴重な品種で、今年初めて大きな花をつけてくれたんだ。切り花にするには惜しいけど、僕だけ鑑賞するのももったいないって思っていたところだよ」
 オレンジ色の薔薇を愛でているジョーンへ、イアンが一輪の黄色い薔薇を手折ってさし出した。振り返り、ジョーンは素直に薔薇を受け取る。
 イアンの指先から血がにじんでいるのが見えた。ハサミを持っておらず、棘だらけの茎を素手で手折ったからにちがいない。
「だいじょうぶです?」
 指を舐めたイアンは、苦笑する。
「刺がささったぐらいどうってことない。ここまで感激してくれたんだ、その気持ちのお返しと思ってくれたらいいさ」
「あ、ありがとうございます」
 また頬が熱くなった。
――こんなあたしのために……。
 優しく接してくれるイアンだが、自分の正体を知ってしまえば手のひらを返すのは目に見えている。
 そもそもだましているのは、この自分。
 複雑な気持ちになった。
 上流階級の紳士と接点のないはずのジョーンだったが、なぜかイアンだと話がはずんだ。季節折々の花だけでなく、彼は農作業のこともよく知っていた。ジョーンの実家も農家だったため、奉公するまえの話をするだけで彼は楽しんでくれる。
 もちろん、自分がメイドであることはしっかりふせて。
「でね、パイを作ろうとしたら、かぼちゃが腐ってたから、母さん慌てちゃって。仕方なく、裏の庭で作っていたブロッコリーの葉っぱを煮て、パイの具にしちゃった――そうよ。それがおいしかったの。だからうちのメイドの実家は、真っ青なパイがいつも出てくるんですって。こんなのお屋敷にいたら食べることがないから、とっても興味があったの。だから話を覚えてて……」
 なんとか伝聞形式にしてイアンに話すと、彼も興味を持って答えてくれる。
「へえ、それはうまそうだ。今度、料理人に話して作ってもらおうか」
「ちょっとだけベーコンとチーズを入れるのがコツなの」
「もちろん、それも伝えておこう。よかったら、今度、僕といっしょにピクニックでもどうかな」
「え? あたしと? とんでもないです!」
「遠慮はしなくていい。結婚願望がないのなら、しばらく個人的に会うだけでいいんだ」
 ジョーンは断ることしかできなかった。
 もし承諾してしまうと、ライザとの約束を破ってしまう。
「ごめんなさい」
「そう……」
 気まずくなったふたりは、無言のまま屋敷にもどる道を歩いた。青と紫の矢車草の花壇までやってくる。
 イアンは優しく花々を見つめ、縁談を断っている理由を教えてくれた。
「このとおり、僕はまったく紳士らしくない。社交界に興味もないし、上流階級の世界にいても落ち着かない。庭仕事をしているほうが、ずっと楽しいんだ。せっかくどこかの令嬢が嫁いできても、話が合わなくて寂しい思いをさせてしまうだろう。だからといって、身分ちがいの女性と結婚するわけにもいかない。だから独身主義を貫くのが、ささやかな僕の――」
 そこで言葉が切れる。
 矢車草に触れていたイアンの手が、ジョーンの手のひらを包んだ。
 震えが走るほど、ジョーンはどぎまぎした。
「よかったら、また会っていただけませんか。こんなにお話がはずむとは、予想していませんでした」
「あ、あの……あたし……」
「さきほども言ったように、結婚がどうこうは考えなくてもいいです。ただ、お話をしたいだけです。それでもいけませんか?」
「……」
「それともほかに好きなひとが?」
――いいえ。
 と、ジョーンは答えようとしたのだが、「はい」と言うしかなかった。
「そうか。それは悪いことをしたな。僕の言ったことは忘れてください。さようなら、ミス・エルダー」
 ジョーンをその場に残したまま、イアンは背を向けた。彼もひどく恥ずかしかったらしく、逃げるように駆け足で去っていってしまう。
 ジョーンはひとりで屋敷の居間にもどったが、帰る時間になってもイアンは姿を現さなかった。


◇◆◇◆◇



 プライス家の屋敷に帰ったジョーンは、淡いピンクのドレスを脱いで仕事着に着替える。慌ただしい時間がもどってきた。
 いつものように暖炉の掃除、部屋の掃除、廊下の掃除、玄関の掃除と、モップやブラシ片手に忙しく動き回る。ただちがうのは仕事の合間、ふとした瞬間にイアン・プライス氏のことを思い出すことだ。
――今ごろ、どうしていらっしゃるのかしら。薔薇のお手入れね、きっと。
 就寝まえ、屋根裏部屋にもどったジョーンは、薄茶色――かつて鮮やかな黄色だった薔薇をトランクから取り出しては、そっと叶わぬ恋に思いを寄せる。隠してしまうほどに、だれにも触れられて欲しくなかった。
 日にちがたてば忘れてしまえると思ったのに、気持ちはつのるばかり。だれに話すこともできない。
 もし知られてしまえば紹介状無しで解雇されるだろう。ライザとの約束を破ってしまったのだから。
 薔薇はすっかり色あせ、ある日、いつものようにトランクから取り出したら、無残にも砕け散った。茶色の屑がぼろぼろと、ベッドの上に散る。
 部屋をシェアしている同僚メイドが顔をしかめる。
「いいかげん、そのゴミを捨ててちょうだい。薔薇なんて庭に行けば、いつでも見られるじゃない。おかしなジョーン」
「うん……」
 この恋は終わった。
 ジョーンは淡い思い出の残骸をかきあつめ、涙をのんで窓の外に投げ捨てた。はらはらとゴミが散り、裏庭に落ちていった。


 薔薇を捨てた翌日の午後、ジョーンはライザに呼び出された。彼女の部屋に入ると、一通の手紙を広げて見せられる。
「ねえ、おまえ。縁談を壊したんじゃなかったの?」
「しっかりお断りしました」
「そう? そのわりには、熱心な手紙を届けてくださるのだけれど」
 上流階級独特の流麗な筆記体だったが、ジョーンは目を凝らしてなんとか解読を試みる。
「あら、おまえ、字が読めなかったのね。いいわ、わたしが読んでさし上げる」
 筆記体じゃなかったら読めたのに、と心のなかで反論するジョーンに、ライザは淡々と文書を口にした。

 ミス・エルダーへ

 あの話はなかったことにしたはずですが、あなたがおっしゃっていたことがどうにも納得できず、こうしてお手紙をさし上げたしだいです。
 好きなひとがいるとあなたは僕におっしゃいましたが、それは真実なのでしょうか。
 大変失礼ながら、僕はにわかに信じることができず、慣れない社交界に顔を出しています。
 目的はもちろん、あなたが好きだという御仁を探すため。
 誤解を承知で申し上げますが、決して、その御仁と話をつけるとか、そういう破廉恥な行動をするためではありません。
 ただ、あなたが好きな御仁がどんな立派な紳士なのか、僕自身の目で見てみたかったのです。
 そうすれば僕もあなたのことをあきらめきれると思ったから。
 しかし、探せば探すほど、あなたにそれらしき御仁がいる気配がないのです。
 では、あのとき僕にお断りになったのは、ただ理由をつけるためだったのでしょうか。
 薔薇をさし出したとき、あれほど喜んでいたのも、ただ僕に気を使われたためでしょうか。
 玄関ホールで初めてお会いしたとき、とてもそんな演技ができるご婦人だとは、思えなかったものですから。
 もし、あなたのお気持ちが変わりましたならば、もう一度、僕と会ってください。
 決して無理強いはいたしません。
 あなたのお返事があることを、神に祈ってペンを置きます。

 イアン・プライス

「……だ、そうよ。ずいぶんと、ご熱心だこと。なにかしくじったのおまえ?」
「きちんとお断りしました」
「じゃあ、なに、この手紙は! わたしは不細工で内気な紳士と結婚なんかしたくないの! それをおまえは泥足で踏みにじって!」
 ライザの怒気にジョーンは圧倒されそうになったが、「不細工で内気」という言葉に耐えられなかった。知りもしない相手を悪く決め付けることに。
「お嬢さま、イアン・プライス氏はとても立派な御仁です。社交界が苦手なのは事実ですけど、それ以外はまったくちがいます」
「なんですって?」
 ライザの目が大きくなる。俄然、興味を持ったのか、ジョーンの腕を取って揺さぶった。
「不細工じゃないって、まともなお顔なのね?」
「とてもハンサムでした。背も高かったです」
「そんな? 信じられない! なぜお写真をよこしてくださらなかったのかしら」
「結婚するつもりがないからだと、あたしにおっしゃいました」
「まあ、どうして? 内気でもないようね、お手紙を読むかぎり」
「詳しい理由まで、あたしにはお話してくださいませんでした」
「そう、そうなの。へえ、そうだったの。だからおまえ……そうね、それだと無理がないわね。あなた、プライス氏に惚れたのね、メイドの分際で」
「……」
 ジョーンはぎゅっとくちびるをかみしめ、拳をにぎった。全身を貫くような怒りと震えが走るものの、ライザが言うのが真実なのだからどうしようもない。
 しょせん、メイド。
「わかったわ。報告ありがとう。そうね、作戦変更ね」
 ここでライザに退室を命じられ、黙って部屋を出るしかなかった。
 その夜、ジョーンは悔しさのあまり、声を殺して泣いた。同僚が気がつかないほどぐっすり眠っていたのが、不幸中のさいわいだ。


◇◆◇◆◇



 エルダー家の客間では奇妙なお茶会がもよおされていた。すでに知り合いだったはずのふたりだが、顔をあわせてみると初対面である。
 招待者であるライザ・エルダー嬢は優雅な手つきでポットを持ち、客人のカップに紅茶を注ぐ。この場に召使はいない。ライザがふたりきりになりたいのだと、母であるエルダー夫人に話しておいたからだ。
 にこやかな笑みを作りながら、ライザがひとりの青年紳士のまえにカップを置いた。
「ごきげんよう、ミスター・プライス。はじめまして――は、不自然ですわね」
 イアンは額に指をやり、記憶の糸をさぐるように視線を斜め上へ向ける。
「僕はあなたとお会いした覚えはないんだが。それよりライザ嬢は?」
「ここにいないのには、事情がございますの。まず、お茶を召し上がれ」
「はあ……」
 落ち着かないようすで、イアンが紅茶を飲むのだが、視線をあちらこちらに動かす。まるでライザなど眼中にないかのように。
 一瞬、ふたりの視線があった。ライザの頬が赤く染まる。
 もし執事が給仕をしていれば、思っただろう。ライザお嬢さまは、大天使の絵画から抜け出したような、美青年紳士に一目ぼれされたにちがいない、と。
 紅茶もそこそこに、痺れを切らしたイアンが早口で話を切り出した。
「ライザ嬢からお手紙をいただいて、僕はお宅へまいりました。あなたはお姉さまでしょうか。事情って、体調をくずされているとか?」
「わたしがライザよ」
「は?」
 光輝く金髪のイアンは青い目をぱちぱちさせ、失笑した。
「あはは。ご冗談を。僕の家へおみえになったライザ嬢は、あなたではない。それより、ほんとうのライザ嬢はどこにいらっしゃるのです?」
「これからわたしがお話しいたしますわ。簡単なことよ。あのライザは、わたしの身代わりでしたの」
「ええ?」
 またもイアンは眉根を寄せ、あんぐり口を開ける。事情がのみこめないと言いたげに。
 扇子を広げたライザが、ゆっくりと口もとへやりながら、悲しそうな表情を作った。
「わたし、まだ結婚する気がございませんでしたの。これから社交界というときに、すぐに将来の夫を決めたくありませんわ。だから、初めからお断りするつもりで、メイドを身代わりにやりましたの。あとからメイドにあなたさまの印象を聞いてみたら、お会いしなかったわたしがまちがっていたのだと気がついたしだいですのよ。決して、ミスター・プライスのことがきらいだったわけではないことを、ご理解いただけますわよね」
 ライザが言い終わるまえに、テーブルのカップが小刻みに揺れた。イアンがテーブルを両手で叩いたのである。
「理解もなにもない。僕は僕の会った、ライザ嬢と話すためにきたんだ。あなたでは、まったく話にならない!」
「あの身代わりはメイドよ。お話なんてさせるわけないでしょう」
「つべこべ言わず、そのメイドを連れてきたまえ!」
「あなた正気? メイドよ?」
「じゃあ、言い方を変えよう。僕はライザ嬢の身代わりをした、婦人とお話をするためにここへ来た。これでいいだろう?」
「まあ、意固地なお方……」
 ライザの扇子を持つ手がかすかに震え、かみしめたくちびるにはじんわりと血がにじんでいた。
「さあ、どこにいる、彼女は?」
「教えるわけございませんでしょう」
「僕が会った令嬢は、じつは替え玉でした――なんて言いわけに気分が悪くならないと思っているのかい?」
「それは謝りますわ。もちろん」
「じゃあ、彼女に会わせてくれたまえ。ならば許してやる」
「まあ……許してやるって。まるでわたしが罪を犯したみたいなことをおっしゃるのね」
「この僕をだましたのだぞ。それだけではなく、母上までも。本気で謝罪をする気があるのなら、まずきみがわが家へ出向いて頭を下げるのが、物事の道理というものだ」
「さきほども申したはずですわ。まだ結婚したくなかったの。だからメイドを使ってやりすごそうとしたんですの。それだけのことなのに、なぜそこまでお怒りになるのかしら。わたしの気持ちを汲んでくださらないの?」
「だめだ。きみとは話が合わなさすぎる」
「残念ですわね。わたしも同じことを思ってましたの」
 ライザはテーブルの呼び鈴を鳴らす。執事がやってくると、「プライス氏がご帰宅なさるわ」と告げる。
「最後にひとつだけききたい。彼女はまだこの屋敷で奉公しているのか?」
「とうにひまをやりました。残念ですこと」
「そんな……」
「それでは、ごきげんよう。あなた社交界がとってもおきらいなようですし、二度と、お会いすることはございませんわね」
 イアンは手袋を取ると、別れのあいさつもないまま、客間を出ていった。
 客間に残ったライザは椅子から立ち上がる。イアンが使ったカップを床に乱暴に落とし、ありったけの力をこめて踏みつけた。無残に割れた陶器のかけらが、絨毯の上に散らばる。
 黙って光景を見守っていた執事が、あとでそっと掃除をするも、絨毯をぬらした紅茶の染みがとれることはなかった。

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