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オレグはビリヤードも抜群にうまかった。故郷で何度も対戦したらしく、遊技場に置いてある緑の台は彼の独占場でもあった。向かうところ敵なしだ。
寮の自由時間になると『打倒オレグ・リマンスキー』を掲げた学生たちが、順番に対戦する。一週間前にたまたまユーリーと遊んでいるうちに、あまりの華麗なキューさばきに他の学生たちが集まりだしたのがきっかけだった。
もちろんユーリーはその日、惨敗に終わったが、勝ち続けるオレグも嬉しそうではなかった。断っても断っても、たくさんの学生たちから対戦を申し込まれてしまうため、仕方なく相手をしているのだ。
わざと負けてしまえば? とユーリーはそっと忠告してみたこともあるが、彼の矜持は許されないらしい。首を横に振るだけだった。
毎日オレグの貴重な自由時間はビリヤードに費やされている。付き合いきれなくて自室で読書をするユーリーだったが、様子が気になって結局、今夜も遊技場に顔を出していた。
十数人の学生たちが台を取り囲み、息を呑んで見守っている。球と球がぶつかる音が、静まり返った室内にこだまする。そして歓声と罵倒が同時にわいた。
「これで十五連勝だ! やってらんねえ!」
キューを乱暴に台に置いた男が、吐き捨てるように言い残して台を後にする。
「私も同感だ。もっと骨のあるやつかと思ったが」
オレグも相変わらず態度が大きい。あれでは逆に闘志を燃えさせるだけで、また懲りずに対戦者が現れるだろう。
「では、次はこの私が対戦してやろう、リマンスキー」
新たにキューを握る男には見覚えがあった。演習のとき何度もオレグをにらみつけていた、見るからに底意地の悪そうなやつだ。
寮の食事がまずいと言って、わざわざ帝都にある屋敷から使用人たちに、豪華な夕食を運ばせていることでも知られている。当然、体型は年齢のわりに肥満気味である。しかし親が名門貴族なので、とがめるものはいない。
オレグもキューを握りなおすと、静かに言った。
「貴殿も暇ですな。こんなみすぼらしい遊技場にわざわざ足をお運びになるとは。感激ものでございますよ」
わざとらしい敬語だものだから、対戦相手は当然不機嫌になる。
「はん。その生意気なツラ、いつまで保てることやら。いい気になるなよ」
「ご忠告、痛みいります」
「……どこまでも目障りなやつめ」
今度の相手は分が悪い。負かしてしまえばその後のことが懸念される。
それでもオレグのことだから、真面目に相手をしてやるのだろう。それが彼の長所であり、欠点でもあった。
ユーリーはオレグのそばに寄ると、袖を小さく引く。
「なんだ?」
「その……。これは遊びだから」
「遊びでも手を抜くわけにはいかん」
やはりそうだ。
半ば呆れ気味でユーリーは対戦を見守ることにした。
まず相手が球を打つ。軽快な音を立てて九個の球は散った。
次にオレグが三番ボールに狙いを定め、軽く突いた。右斜め前の一番ボールに当たり、見事ポケットに転がり落ちる。
歓声が上がった。がすぐに消えた。
相手は憤怒の表情に満ちていたからだ。それでも構うことなく、オレグは順番に球を打っていた。
予想通りオレグが勝利した。しかし誰もが対戦相手の動向を注目している。緊迫した空気が遊技場に漂った。
はち切れそうな頬の肉を痙攣させながら、敗者はキューを真っ二つに折る。かなりの立腹さに、ユーリーは冷や汗を感じずにいられない。
「どうして何もかも負けることを知らない? こんな化け物見たことがないぞ」
「さようでございますか。私は化け物ですか。大変ありがたいお言葉ですね。人間以外のもの呼ばわれされたのは、初めてでございますから」
涼しい顔でオレグは棒読みのセリフを吐いた。
「貴様……。私を誰だと思っている?」
「敗者」
「その前は?」
「挑戦者」
「他には?」
「誰もが敬う高貴なる血筋のお方」
「言ったな」
無様な敗者の顔が笑みに変わる。あまりにもそれが下卑たものに見えてしまい、嫌な予感がユーリーを動かした。
「……もういいだろう。帰って休もう、オレグ」
「そうだな」
二人は足早にその場を去ろうとするが叶わなかった。言葉の刃が遊技場にこだましたからだ。
「私が高貴なる血筋ならば、貴様は下賎の血筋だな! なにしろ悪名高き金貸屋の息子だからな!」
周囲がざわめく。
ユーリーは表に出るようオレグの背中を押すが、すでに手遅れだった。ゆっくりと踵を返し、再び相手に向き合う。
「なんだその顔は? 真実を知られて困るのか? だろうな。下賎の輩ならば卒業しても、ロクな職場は与えられない。せいぜい植民地の尉官どまりだろう。あそこは一度、長期赴任したら、風土病で生きて帰れない連中が多いと専らの噂だからな。いくら努力しようが、無駄だということを、誰も教えてくれないのか?」
なだめるようとするユーリーを背に、オレグは腕を組み毅然と言葉を返す。
「おまえごときに私の将来を決めて欲しくない。たしかに私は金貸屋の息子だ。だが現実に甘んじていられないから、こうしてここで学んでいる。それに……」
オレグは周囲で黙したまま見物している学生たちを目で追う。ひとり、ひとりしっかりと。
「金貸屋がそんなに忌避される商売なのか? そもそも金を借りるやつがいるから、繁盛するんだ。もし金貸屋がなくなれば、それこそ餓死する連中が増えるだけだが」
敗者が侮蔑の視線を投げかける。
「はん。貧しい連中からどれだけ搾り取っている? それこそ寄生虫のような商売だろ?」
「では逆にきくが、なぜ貧しい連中が大勢いる? 富が公平に行き渡らないからだ。ごく一部のおまえのような、高貴なる血筋のお方たちのおかげでな」
「ぐっ……」
まさしく正論だ。敗者はさらに負けの色を濃くしてしまい、後はお決まりの捨て台詞である。
「覚えておけよ、リマンスキー。この侮辱は必ず晴らしてやる」
「ああ。いつまでも待っている」
涼しい顔で答えるオレグだったが、ユーリーはそれが不安でならない。
いくら冷静だといえども、これでは売り言葉に買い言葉。あの男のことだから、近いうちに災いをもたらすにちがいない。
オレグもオレグだ。心底では怒っているのに、それを表に出さないからかえって生意気だと、敵意をあおってしまう。
ユーリーは対峙する二人の間に入り、敗者を見た。顔を紅潮させている。湯気が立ちこめてきそうだ。
そしてオレグを見る。眉一つ動かさない。氷のような冷たい灰色の瞳がふと、こちらをとらえた。
「ユーリー?」
「言いすぎだ。君から謝るべきだと思う」
「私は悪くない」
「悪い、悪くないの問題じゃなくて、その態度だ。前にも僕は言ったろう、どんな相手だろうとも不遜な言葉遣いはよくないと」
「あいつに謝罪しろと?」
「そうだよ」
「ごめんだ」
「だから……」
オレグの頑な態度に困り果てる。代わりに自分が謝るわけにもいかないし。
とにかくこの場を離れて、オレグが本当に冷静になるのを待ったほうがいいかもしれない。
そう判断し、強引にオレグの腕を引っ張るようにして、遊技場を出よう、と再び言った。そのときである。相手の怒りの矛先が変わった。
「ユーリーとかいう貴様、やつにいくらもらった?」
無視したかったが、仮にも高貴なる血筋のお方なので仕方なく答える。
「いくらって何をです?」
「決まってるだろ。金だ」
「いいえ。一銭たりとも受け取ったことはありません。誤解です」
「前々から気になっていたが、いつからリマンスキーは世話係まで雇うようになった?」
「ですから、そのような関係ではありません」
「ではただの犬か。それにしても、リマンスキーのやつずいぶん、懐かせたな。傍から見ていても、尻尾を振っているようにしか見えないぞ。しかもかわいい金髪の子犬だ。私もぜひ飼ってみたい。なあ……、おまえらもそう思うだろ?」
見物している連中に同意を求めているようだ。誰も否定する勇気はないようで、うなづきだけが返ってきた。
「ほらみろ。おまえは犬だ」
「……そうですね」
どこまでも性根が腐っているんだ。
無論、侮蔑されていい気持ちはしないが、争うだけ無駄だと再認識せずにいられない。
今度こそ、遊技場を出よう。
つかんでいたオレグの腕が突如、強引に振り払われた。
拳が炸裂する音と、どよめきがこだまする。
振り返ったユーリーが見たものは、床に転げ落ちてうめき声を上げる小太りの男と、拳を容赦なく振るう友の姿だった。