―冬の章 06―




 遊技場での騒動で捕まったのはオレグであった。先に手を出したから当然だといえるものの、騒ぎを作ったのは肥満気味の男だ。ユーリーは顔だけで名前を知らなかったのだが、騒ぎを見物していた連中はバリャコフと小声で呼んでいた。
 本来ならばバリャコフも反省房に入れられてもおかしくないが、オレグが大怪我でも負わされない限り、それはありえなかった。父親はアリョーヒン伯爵を名乗る人物だからである。大半の学生のように、出自が騎士の名ばかりの貴族たちならともかく、伯爵では対等に渡り合うには分が悪すぎる。
 オレグは騒ぎで駆けつけた校内の警備兵たちに取り押さえられ、手錠をかけられると、引きずられるようにして遊技場を連れ出された。ユーリーは追いかけるのだが、寮から離れた建物の手前で行く手を警備兵たちにさえぎられた。ここから先は許可がないと入れないという。
 オレグが消えた建物は四角くく、丈夫な白い壁でできており、鉄格子の窓が高い位置に見えるだけの恐ろしく簡素なものである。出入り口に小さな扉が一つあるだけだ。脱走を防ぐためだとはいえ、これでは完全に犯罪者扱いのようで見ているだけで悲しくなった。
 警備兵に掛け合っても、明日の朝、学校長である中将に指示を仰がないと、自分たちもどうすることもできないと言うだけである。仕方なく、今夜はそのまま寮の自室にもどって休むしかなかった。当然、眠れるはずもなかった。
 翌朝、オレグの同科はもちろん、ユーリーの所属する科でも昨夜の出来事は、皆の知るところとなっていた。当たり前だ。あれだけの見物人がいたのだから、すぐに話が広まらないほうがおかしい。
 興味本位に誰もがオレグとバリャコフのことをきいてくるのだが、一切答えなかった。
 一方のバリャコフは顔を殴られて腫れてしまったものだから、一時帰宅している。帝都に屋敷があるから気軽にもどれるとはいえ、オレグとの件についてはまったく話す気はないらしい。
 その日の自由時間、再び反省房をおとずれてみたが、あえなく追い返されてしまった。今はまだオレグの処分が正式に決定しておらず、それまでは誰とも面会できないという。
 夕日の光を反射して橙にそまった反省房の白い壁を仰ぎ、格子の窓を見つめる。憤怒のあまり正気を失っているかもしれないし、逆に冷静に自分を見つめているかもしれないが、オレグのことだから、自らを貶めるような愚かな行為はしないだろう。そう信じて祈るしかなかった。
 その翌日、そしてそのまた翌日もオレグはもどらず、一日は終わり、ユーリーは自室で眠れない夜をすごしていた。睡眠不足で瞼が重く、身体がだるい。それでも気になって寝付くことが出来ない。
 扉を叩くものがいる。
 ユーリーは飛び起きた。いつの間にか眠りかけていた。
「ユーリー・サラファノフ。コモフ教務指導官が呼んでます。至急、身支度を整えて反省房にとのことです」
 返事をするより早く、寮の管理人がランプ片手に自室に入ってくるなりそう言った。かなり急いでいるらしく、早く、早く支度をと連呼する。
 反省房って、オレグに何が?
 焦る気持ちを抑えながら、支給されている軍服に袖を通す。ブーツをすばやく履くと、帽子片手に寮の廊下を駆け抜けた。
 玄関の扉を開けた。表は暗い。ランプを用意すればよかった――と後悔したものの、幸い、今宵は満月。暗闇に目がなれてくると、庭を駆け抜け、裏門をくぐる。そこに広がるのは高い塀で囲まれた小さな原っぱだ。昼間、太陽に照らされた夏草の匂いがまだ残っていた。
 反省房は月光を淡く反射し、青白い姿を映し出している。小さな扉を叩くと、返事があった。
「ユーリー・サラファノフです。コモフ教務指導官どのが至急お呼びだとおききし、参りました」
 警備兵が内側から扉を開けた。腰をかがめて中に入ると、熱気が漂ってきた。換気がよくないものだから熱もこもるはずだ。こんなところに三日も閉じ込められるオレグが気の毒で仕方ない。
 少し通路を歩くと、扉のない小さな部屋があった。警備兵たちの待機室といったところだろうか。しかしあまり使われている様子はなく、禿頭のコモフ教務指導官が座っている椅子には、埃が薄暗いランプの明かりでもはっきり見ることができた。
 椅子を勧められ、敬礼をして座る。
 大きなあくびを一つし、コモフは言った。
「君、なんとかならんかね? 書類に署名すればすむことなのだが、なかなか頑固者でこれで三日目だ。早くせんとまた面倒なことになる」
 と、卓に置いてある紙切れを指差す。それには『退学届』と書かれてあった。
「た、退学……ですか? なぜ!」
「決まっておるだろう。殴った相手が悪かったのだ。あれからアリョーヒン伯爵家の使いが来て、問題のある学生とともに学ぶことは遺憾だという、書面を渡されてな。もうどうすることもできん」
「そんな……」
 目の前が暗くなる。
 たしかに殴ったオレグが悪いが、元はといえばあのバリャコフの暴言が始まりだ。しかも身元を調べていたのも彼だという噂が、騒動のあとユーリーの耳に入ってきた。初めからこうなることを計算して、あの男は勝負を挑んだにちがいない。
 葉巻に火をつけるコモスに、ユーリーは懇願するように言った。
「そんなのおかしいじゃないですか。一方的に相手の話だけ聞いて、オレグの弁解がないなんて!」
 コモスは視線を落としたままだ。
「聞いてますか? 僕の話を」
「もちろんだ」
「ではなぜ、退学なのです?」
「さっきも言ったろう。我々にはどうすることもできん、と。もしリマンスキーの父親か母親、もしくは血の濃い親戚に地位のある貴族がいれば、反省文一枚ですまされるんだが。……こんなこと、言わんでも分からない君ではないはず。だから唯一の友人だという、君を呼んだんだ。ここは穏便に説得してくれたまえ」
「僕は反対です。退学させません」
「君……」
 顔を上げたコモスは今にも泣き出しそうであった。いつも飄々としている壮年の教務指導官が、である。
「私だってリマンスキー君のことは、惜しくてたまらないよ。あれだけの逸材、そう滅多に出会えることはない。ゆくゆくは帝国陸軍の佐官として、隊を束ねてもらってもおかしくないぐらいだ。だから私からも卒業後の進路の面倒をみてやるつもりだった。なのに、彼は愚かだ。己の身分をわきまえることを忘れてしまったばかりに。愚かすぎる」
「……」
 知らなかった。
 その出自ゆえ、将来は決して明るいものではないと誰もが思っていたし、オレグだって口に出さないまでもそう感じていたはずだ。それでも懸命に努力しているオレグを遠くから見守っている人物がいたとは。
「自主退学なら故郷に帰るだけで終わる。しかし裁判となると最悪、監獄行きもありえる。伯爵が学校を訴え出る前に署名させてくれ、サラファノフ」
 無言のままユーリーはその場を立つしかなかった。
 どちらにしてもオレグはもうここにはいられないということだ。
 ならばコモスの言うとおり、穏やかな道を選ばせてやることしか残されていない。


 オレグは狭い牢屋のなかにいた。簡単な寝床と排泄物を溜めておく桶以外、これといったものは見当たらない。もし自分が三日も閉じ込められていたら、気が狂いそうだ。
 ベッドに腰掛けているオレグが、ユーリーを見るなり駆け寄ってきた。が、牢屋だから互いの顔を錆びた鉄格子を挟んでの対面である。
「ユーリー……」
 それだけ言うと、オレグは鉄格子を持ったままうなだれてしまった。暑さでかなり体力を奪われたらしく、その顔はひどくやつれていた。
「大丈夫かい?」
「なんとかな」
「そう。無理しているように見えるけれど」
「……」
 やはり顔を上げない。相当疲れているらしい。
「さっき教務指導官と話したんだ。自主退学すれば故郷に帰れるそうだよ」
「……」
「僕もそのほうがいいと思う。ここは元々、ああいう連中が大手を振っている世界だ。もし運よく、日常にもどれたとしても、また――」
 ここまで言ってユーリーは歯を食いしばった。いくら友のためとはいえ、心にもない言葉を口にする自分が醜くてたまらない。
 しかし納得させなければ、反省房どころの比ではない日常が待っているのも現実だ。
 大きく息を吸い、意を決して言葉をつづけた。
「退学届けに署名するんだ! 残念だけれど、僕には君を救えるだけの力はない!」
 鉄格子が小刻みに揺れる。オレグが顔を上げた。
 それは悪鬼のごとき形相だった。こめかみに青筋が立ち、兎のように目が赤く血走っている。噛みしめた下唇から血が滴り落ちた。
 思わず、ユーリーは後ずさりする。今にも食い殺されてしまいそうだ――それほど、鬼気迫るものがあった。
「貴様、悔しくないのか……? 俺がヤツを殴ったのも、大切なおまえが侮辱されたからだ。八つ裂きにしてやってもいいぐらいだっ!」
 ユーリーは首を横に振ることしかできない。
「そうやってあいつらの言いなりになるから、いつまでも付け上がっているんだぞ。どうしてみっともない豚野郎に、この俺が頭を下げなくてはいけない? そんな道理誰が決めた? 神か? ならばこの世に神は存在しないことになるな」
 オレグの怒りはユーリーを震わせる。
「オレグ……。僕のことはいいんだ。だから――」
「だからなんだ? おめおめと退学しろと?」
「……」
「負けを認めることになるのだぞ!」
「……」
「地を這いつくばってでも、俺は認めんからな! 失せろっ!」
 さらに激しく鉄格子が揺れる。様子をうかがっていた警備兵がユーリーを、牢屋から追い出し、明かりを落とす。
「二度とくるな」と叫ぶオレグの声を聞きながら、コモスとともに反省房を去るしかなかった。

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