翌日は仮病をつかって講義も実技訓練も休むことにした。
寮にいる学生たちが消えてしまうころを見計らい、ユーリーは私服に着替えると厩舎の世話係にチップを払い馬を借りた。すぐにアリョーヒン伯爵邸目指す。士官学校は帝都にほど近い郊外に建てられており、前もって地図で調べた屋敷までは馬をつかえば昼前には充分間に合う。
帝都は円心状に街が広がっていた。はるか昔まだ一公国だったころの都市は高い城壁が取り囲み、その周囲を新たに出来た建物が徐々に増えていく。やがてそれは巨大な切り株の年輪のように成長していった。街の奥に入れば入るほど建物は旧く威厳に満ちてゆき、王侯貴族たちはさらにその奥の城壁の内側に住まいが設けられていた。そのさらに奥にも城壁があって、そこは生涯足を踏み入れることがないであろう、王宮の高い瑠璃色の屋根がそびえている。
荘厳な帝都だが、一方では貧困民の姿も多く見受けられた。石畳の表通りは整備されて馬車も往来している。しかしその迷路のような裏通りの奥には、瓦礫でできた小屋が立ち並んでいることを、帝都に住む誰もが知っている。
貧しさのあまり農家では子供たちを売り、人買いは大都市に出向いて商品として、金持ちたちに売る。売られた子供たちは運がよければ住み込みの下働き、悪ければ奴隷となり、やがて飽きられたころに捨てられる。
捨てられたかつての奴隷は同じ境遇の者たち同士、集団で暮らしているのだが、そのほとんどは貧民街に暮らしていた。もちろん治安も悪く、用があっても立ち入る者好きはいないし、定期的に軍が彼らを無情にも追い払う。抵抗するものは容赦なく射殺だった。
皮肉なことに武器は年々進化していくのに、帝国に住む庶民たちの暮らしはいっこうに変わらない。
自分の境遇はなんて恵まれているのだろう。路地の端々からわずかに瓦礫が見えるたび、ユーリーはそう思わずにはいられない。
その一方、アリョーヒン伯爵の血を引くバリャコフなような連中もいる。いくら己が正しいと思っても、彼らの機嫌を損ねてしまえばたちまち境遇は失墜する。だからできるだけ関わらないようにするか、もしくはご機嫌取りに徹するかのどちらかだ。
そんなことに意味があるのだろうか?
疑問を投げかけても答えを見つけてはいけない。
知らないふりをするのがもっとも賢い。
本当にそうなのだろうか……。
ビリヤードのキューを真剣にさばくオレグの姿が目に浮かんだ。
そして見物する大勢の学生たち。
誰もがあの様子を見物していたのだから、勇気を出してバリャコフを諌めるべきではなかったのだろうか。そうすれば、きっと同意してくれる者がたくさん現れるはずだ。
まさか。
オレグはいくら富裕層だとはいえ、所詮平民だ。味方をするだけ、不利になるから遠巻きに見ているほうがいいに決まっている。誰もがそう思ったはず。それが最大の弱点になるから、わざわざバリャコフは戸籍を閲覧して身元を調査したのだ。
学業の妨げになるから、身分に関係なく平等に教育を受けることができるが、それはあくまでも建前の話。実際は寮での部屋割りや、演習で与えられる役割や、教官たちの態度で誰が高貴なる血筋のお方なのか判別できる。
逆に身分の低いものは厳しい審査を通過して入学しているから、姓が知られてないのに優秀な一部の学生たちは、特別枠なのだと噂されることも多かった。特別枠とは士官学校側が用意した選抜試験制度のことで、中等学校を卒業していない平民でも受験することができる。ただしとてつもなく門は狭い。
当然、高貴なる血筋のお方たちは面白くない。自分のほうがはるかに身分が上なのに、平民上がりの士官候補生に見下されてしまうからだ。
そしてバリャコフとオレグのような陳腐な騒動が起こる。
たかが喧嘩ではないか。
それなのに、どうしてオレグが一方的に退学しなくてはならない?
しかも相手を殴らずにいられなかったのは、友人である自分を貶されたため。
あのときオレグのように、バリャコフに言い返せばよかったのだろうか。
――貴様、悔しくないのか……?
オレグは鬼気迫る顔でそう言った。
「もちろん、悔しいさ。だけど悔しさだけで、あいつを負かせられるとでも?」
そんな言葉が口をついて出る。
自分の無力さと友の愚かさが、どこまでも惨めであった。
ユーリーを乗せた馬は高い城壁を周り、東側の門をくぐる。ここは帝都でも名門貴族たちが住まう屋敷が多くあり、アリョーヒン伯爵邸もそのなかの一つだった。
土地が狭いから屋敷といっても規模は小さいが、豪勢さは田舎領主とは比べ物にならないし、なにより洗練されている。伯爵邸も予想通り立派な門構えだった。白薔薇の蔓が華麗に門柱を飾り、門扉の奥に広がる扉もまぶしいばかりに白い。
門番にバリャコフと面会したいと伝える。もちろん士官学校生であることと、名前も告げた。しばらく待っていると、屋敷から門番がもどってきて、あっさりと門を開けてくれる。足を踏み入れると、丸眼鏡をかけた三十歳ぐらいの男がユーリーを待っていた。
「秘書のペトルシキンと申します。若主人さまがお待ちです。ご案内いたしますから、どうぞこちらへ」
バリャコフはユーリーと会うことをすんなり承諾してくれたらしい。
何か裏があるようで、逆に怖くなってきた。それでもオレグを救うためには、自分が動くしかなかった。誰も頼れるものはいない。
廊下を進み、角部屋に案内された。そこは小さな客間だった。来賓というより、ちょっとした訪問者を休ませるぐらいの部屋だ。それでも調度品はユーリーの実家では考えられないような、贅沢なものばかりだった。
ソファに腰掛けしばらく待つと、バリャコフがやってきた。秘書は退室し、ユーリーと二人だけの空間になる。
赤紫の大きな痣の頬が痛々しいバリャコフは、どっかりとソファに座るなり、怪訝そうに言った。
「リマンスキーの犬か。やつをかばいにきたのだろう?」
ユーリーはうなづく。
「ええ」
「無駄だ。やつは私を侮辱した。退学してもらわないと、不愉快で仕方ない。それだけのことをしたのだから、当然の報いだ」
まったく悪びれる様子のない相手に、ユーリーは内心、落胆せずにいられない。少しは頭を冷やしてくれたかも……と少しでも期待した自分が情けなかった。
それでもここまで出向いたのだから、引き下がってしまえば意味がない。
「お願いです。彼は僕のために拳を振るってしまいました。だから本来ならば、僕があなたに反論しなくてはならなかった」
「だから許せと」
「許せ、とまでではいかなくても、せめて休学にしてもらえないでしょうか」
「甘いな」
涼しい顔でそう言ったバリャコフだったが、急に笑いだした。
「あはは! そこまでやつをかばうのか! あんなくそ生意気な男、いないほうがせいせいすると、誰もが思っているのにか?」
「僕は思っていません」
「まさに犬だ!」
さらにバリャコフの笑いは大きくなる。
なにがおかしいのだ?
ユーリーは気分を害するのだが、それを口に出すわけにいかなかった。
ひとしきり笑った後、バリャコフは下卑た視線を投げかけた。
「ふふん。これは面白いな。あの下賎の男に懐いている犬か。どこがいいんだ?」
「どこがって……。それは。気がついたら親しくなっていたというか」
「前に貴様は金ではないといったな。ではなんだ?」
「親しくなるのになにか必要なのですか?」
「どうしてだ?」
「それは僕がおききしたいぐらいです」
「あの男の取り柄といえば、金ぐらいだろうが。他にあるのか?」
「取り柄……」
それならたくさんある!
ユーリーはここぞとばかりに、オレグの長所を挙げていく。
「まず教養があることです。僕も驚きましたが、講義で教官たちと対等に意見しあうんです。つぎに銃の扱いに長けていることです。的の中央にしか穴を空けたことがありません。そのつぎには乗馬。そして剣術。誰と対戦しても必ず勝ちます。そして――」
「ちがう。私がききたいのはそんなことではない」
「え?」
「あのくそ生意気な男のどこがいいのか、ときいたのだ」
どうやらオレグの人柄のことを言っているらしい。
改めて問われてみれば、深く考えたことがなかった。自由時間になると雑談したり、休日にはともに街に繰り出すぐらいの仲だ。あと、共に演習がある日などは、こっそり剣術や銃撃のコツを教わったしている。
「どこがいいって……。そうですね。率直なところでしょうか」
「率直? やつが、か?」
「はい。ああ見えて、考えていることすぐにわかるんですよ。おかしいならおかしいといえばいいのに、笑いを我慢しているんですから」
「やつが笑うのか?」
「僕の失態、いの一番に笑うの、オレグなんですよ」
「私は見たことないが……」
「普段は澄ましているけれど、実は負けず嫌いで子供っぽいから、僕もときどき困ります。手を抜くことを知らないから、なんでも真面目に取り組んでしまうところも、頭痛の種です」
「ではどうして一緒にいるんだ?」
「楽しいから」
「やつといるのが?」
「はい。オレグといると、本音が言えて気がラクなんです」
「そうか……」
バリャコフはそれからしばらく、考え事をしていたのか、ユーリーとテーブルに置かれた紅茶とを交互に見つめていた。
「決めた」
ぽつりとそうつぶやき、バリャコフはユーリーを指差す。
「貴様、私の犬になれ。承諾すれば、リマンスキーの罪は問わないことにしよう」
「え、ええ?」
突拍子のない提案に、ユーリーは言葉を失う。
「それが私から貴様への交換条件だ」
拒否したいに決まっている。
だが、ここで断ることができない立場なのも、充分承知していた。