ユーリーがバリャコフの屋敷を訪れた翌々日の朝、オレグは反省房から解放された。休学扱いになるかと思ったが、なんとアリョーヒン伯爵は「一切、不問に処す」と書かれた書状を使いに携えさせたのだ。
あまりの気の変わりように誰もが訝しんだ。きっとオレグの両親が、慌てて莫大な寄付金を伯爵と学校に贈ったにちがいないと。
しかしそれを口にするものはいない。
伯爵がそう判断したのだから、それで終わりだ。
だが、ユーリーだけは不本意な日々の始まりになるであろう。
まだ傷が癒えていないというのに、バリャコフはオレグが解放されたその日のうちに、士官学校にもどってきた。幸い、科が違ったから昼間は接触する時間がないものの、自由時間が地獄の門を開いた。
体力を消耗しきって自室で臥せってしまったオレグを見舞う暇もないまま、バリャコフとの約束どおり遊技場に向かう。そこに待ち受けていたのは、バリャコフとその取り巻き連中だった。がら空きになったビリヤード台で、酒を飲みながら試合をしている。
いつもなら他の学生たちで賑わっているのに、バリャコフに遠慮してビリヤードを嗜むものはほかにいない。距離をおいてトランプゲームに興じたり、チェスの駒とにらめっこしている。
「おお、来たか!」
ユーリーはバリャコフに満面の笑みで迎えられた。しかしその馴れ馴れしさが肌をあわ立たせてしまう。
「よしよし。今から楽しもうじゃないか。ほら」
キューを手渡された。対戦しろ、ということらしい。
「貴様、球突きは得意か?」
「いいえ」
「そうか。張り合いがない勝負は嫌いだからな。覚えておけ」
オレグとなら惨敗確実なバリャコフだが、そこそこ上手い相手とまったく苦手な自分では勝負にならないだろう。
それでも言うとおりにしなければならない。
緊張しながらも先行で球を突く。強すぎたせいか、六番の球がポケットに転がり落ちてしまった。ユーリーの負けである。
「張り合いがないな」
「……」
バリャコフを見るとあの下卑た笑みがあった。
「すみません。もう一度」
「だめだ。私は気分を害した。罰を授けよう」
彼が指を鳴らすと、取り巻きのひとりが手にしていたグラスの中味を、ユーリーの頭上にぶちまけた。強いアルコールが口に入り、むせずにいられない。
「ごほっ……!」
「次こそは楽しませてくれるよな、サラファノフ?」
肯定も否定もできなかった。
黙ったまま、再度キューを握り締め、先にバリャコフが打った球に狙いを定めた。一番を狙うが三番ボールに当たる。続けてバリャコフ。一番ボールは入らなかったものの、あと少しでポケットに落ちそうだ。
それに狙いを定めるユーリーだったが、またしても強く打ちすぎてガードに跳ね返ってしまい、そのまま三番ボールに当たってしまう。音をたててポケットに入ったのは、三番ボールであった。
またしても呆気なく惨敗してしまった。しかもつづけて己のミスだ。
「つまらんなあ。つまらん、つまらん。もっと楽しませろ!」
そう大声で言うバリャコフだったが、やはり顔は笑いに満ちている。試合以外で楽しんでいるのが如実だ。
次の合図で取り巻きのひとりが、ポケットからナイフを取り出した。そしてユーリーの髪を無理やりつかみ、ばっさりとひとつかみ切り落とす。金の髪が緑の台に散った。
「あはははっ! 酒臭いから取り除いてやったぞ。感謝するんだな」
「……」
惨めだ。惨めすぎる。
悔しくて歯軋りせずにいられない。
それでもオレグのように刃向かう勇気はでてこなかった。
「なんだその顔は? 女のように泣いて詫びるのか?」
「……いえ」
「貴様のような軟弱なやつが士官になろうなど、はなはだ思い上がりもいいところだ。素直に故郷に帰れ。これはありがたい私からの忠告だ」
堪えながら言葉を呑み込むユーリーを、周囲の学生たちが興味深そうに見物していた。以前のように彼らも、傍観するだけなのだ。心では同情しても、行動に移すものはいない。
「リマンスキーがいないと何もできないのか。やはり貴様はただの犬だな」
その言葉が感情に火を付けるが何も言い返せず、一刻も早くここから逃げ出したかった。
耐え難い屈辱と恐怖が心を支配し、震えることしかできない。
そんな立ち尽くしたままのユーリーに声をかけるものがいた。
「なにをしている!」
この声は!
振り返るとオレグがいた。
すっかりやつれてしまい、身だしなみはどこかへ忘れてしまったような格好だったが、自分を見るあの理知的な瞳はいくらか輝きを取り戻している。
キューを台に置きながら、バリャコフが言った。
「よく来たな、リマンスキー。臥せっているところをたたき起こして申し訳ないが、ぜひとも退学取り消しの祝いをしたくてな」
「……どういうつもりだ?」
「どうもこうも、これが私とサラファノフとの取引だ。無論、彼も快諾してくれた」
「快諾だと? このどこが?」
「そうだろう、サラファノフ?」
底意地の悪いバリャコフの視線が自分をとらえた。
――そんなことあるものか!
そう叫びたかったが、黙ってうなづくしかなかった。
「本気なのか、ユーリー?」
「……」
「私の処分を不問にする代わりに、おめおめとこいつの……」
オレグは怒りに満ちているはずだったが、その表情は狼狽のそれに支配されていた。たちまち眉間が曇り、己の頭を大きく振る。
「そうか。そうなのか…………」
バリャコフの前に立つと、オレグはひざを折り、床に両手をついた。
深々と頭を下げ、腹の底から搾り出すような声で懇願する。
「頼む。ユーリーをこれ以上、巻き込まないでくれ。私ならいくらでも罰してくれてもいい。……だが、彼は無関係だ」
ざわめいていた周囲が静まり返った。誰もがオレグとバリャコフのやりとりを、注意深く見守っている。
バリャコフは咳払いをする。
「ふん。くそ生意気な下賎の言うことなど、信じられるものか。その場を取り繕うだけなら、誰でもできるぞ」
「頼む……」
「では、忠誠の証として、私の靴を磨いてもらおう」
ブーツの先がオレグの鼻先に突き出された。
相手の靴を舐めることは、敵に完全降伏することを示している。そのような因習は昔話にしかなくなったが、バリャコフはそれをこの場で再現しようとしていた。
「できないのか? なら、あれは永遠に私の犬になってもらう」
少し間を置き、オレグは靴を舐めた。周囲にどよめきが起こる。
「もう一度」
残り片方のブーツの先をバリャコフが突き出すと、無言のままオレグはそれも舐めた。
「これで貴様は二度と、生意気な口をきかないことになる。今度、私を不快にさせたら、退学ごときではすまないと思え」
「……」
「返事は?」
「はい。誓います」
「よかろう。今夜は寮にもどれ。そこの犬とともに」
よろよろと力なく立ち上がるオレグの肩をユーリーが支える。二人は逃げるようにして遊技場を去るしかなかった。
「君。……まってくれ、そこの君たち」
遊技場から寮へともどる薄暗い道すがら、ユーリーとオレグを呼び止める者がいた。
しかし今は誰とも顔を会わせたくない。
うつむいているオレグも同感のようで、無視したまま歩き続けた。
「こんなときに呼びかけて申し訳ないが、ぜひ、君たちの力になりたい」
どうやら冷やかしではなさそうだ。
ユーリーはゆっくりと振り返る。見たことのある亜麻色髪の男が軍服姿で立っていた。
「あなたは?」
「これは失礼。自己紹介を失念していた」
男はその場で胸に手をあて騎士流のあいさつをする。その表情は穏やかだが、深緑の瞳からは意思の強さがうかがい知れた。
「私はアドリアン・グリエフと申す。以後お見知りおきを」
「……聞いたことがある」
ぼそり、とオレグが答える。
「当たり前だ。四回生会会長でヴラドヘン男爵令息。別名、白鷺の貴公子」
「ふふ。よくご存知だ。さすがリマンスキー君。私が目にかけただけあるよ」
「まだ何か用が? 悪いが、あなたたちのような高貴なる血筋の方とは、金輪際かかわりたくない。失礼する」
オレグは背を向け、足早に去ってしまった。ユーリーは追いかけようと思ったが、相手が相手だけに、非礼をするわけにはいかず仕方なく話を聞く。
グリエフは肩をすくめ、オレグの背中を見送る。
「あのリマンスキー君もさすがに、今回ばかりはこたえたようだな。それにそこの君も、ずいぶんと痛めつけられて。どうしようもない輩だ、あいつは」
「あの……ご覧になっていたのですか、僕たちのことを?」
「ああ。すまないとは思っていたが、様子をうかがわせてもらったよ。バリャコフをどう扱うのかとね」
「そうですか……」
あの状況を高みの見物してたとは。趣味が悪いとしかいいようがない。
ユーリーは悪態をつきたくなる。それだけ今、気分がすぐれなかった。
「そんな顔をしないでくれ。おかげで協力する決心がついたのだから」
「協力って?」
「リマンスキー君はみかけによらず、友情に厚いようだ。君のためなら誇りを捨てることさえできる。並みの精神の男なら、とうに自主退学してしまったろう。たとえ、処分が不問に終わっても。ずいぶんとできた男だ」
「それと協力とどう関係が?」
「バリャコフのことだからまたささいなことで、無茶を言ってくるかもしれない。リマンスキー君と同科だし可能性は高い。君だって、また難癖をつけられかねない。そのとき私を頼るがいい。できるだけ力になってやろう」
何か裏があるのではないだろうか?
バリャコフはもちろんだが、グリエフといい、上級貴族の連中は意識してないかもしれないが、暗に自分たちより身分の低いものを蔑む傾向がある。なによりその言い方が気に入らない。
だが厚意を踏みにじるようなことを言えるはずもなく、ユーリーは礼をするしかなかった。
「ありがとうございます、グリエフ卿。お言葉感謝いたします」
苦笑がかえってきた。表情が柔らかいから、その苦々しさも率直に伝わってこない。
雰囲気がつかみにくいからどうしても、相手の腹を探りながらの会話になってしまう。余計なことは話せない。バリャコフは人間的に最低だが、考えていることが手に取るように分かるから、その点ではまだ応対が簡単である。
「……グリエフでいい。堅苦しいのは好きでないから」
「はい。グリエフ様」
「まあ、覚えておいてくれ」
「では」と、グリエフはあいさつもそこそこに、去っていった。ユーリーと同じ寮にもどるのかと思っていたが、まだ他にも用事がまっているようだ。