―冬の章 09―



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 天は快晴だった。少しずつ春が近づいているようで、雪嵐に襲われることもなかった。
 ユーリーが行き倒れになった日は猛烈な吹雪だったが、元々この地方は雪より気温の低さが過酷である。それを計算してオレグとともに旅立ったはずだが、不運なことに三日目にしてあの凄まじい雪嵐に襲われたのだ。
 マナの父親が操る犬ぞりに乗りながら、ユーリーは単調な白い世界を見つめていた。
 歩いて三日かかる行程を、犬ぞりならわずか半日と少々で足りる。だが、父親は目的地よりかなり手前で降ろさなくてはならないとも言った。
「なぜです? 命の恩人だから仲間にも紹介したいんだ」
「だめだ。俺たちはおまえたちとはちがう。災いをもたらす」
「災い?」
「大地の民と風の民は仲が悪い。おまえは大地の民。俺は風の民。無理だ」
 要するに先住民族である彼らと、開拓してきた自分たちの民族のことだろう。帝都や故郷からこの地方は途方もない距離があるから、実情はよく知らないが、虐げられた過去をもっていると聞いたことはある。マナたちが森に隠れるようにして住んでいるのも、それがあるにちがいない。
 それでも一応、先住民族も帝国の民になるから、役人たちが税を取り立てている。言葉だってなんとか通じるし、おぼろげながらも帝都のことを知っていた。
 目的地が近づくにつれ、ユーリーの心は重くなっていく。
 食料を街まで買いに出たのに、帰りはてぶらに近い。しかも自分たちがもっとも頼りにしているオレグはすでにこの世にいない。肉体だけが氷の大地に埋もれたままだ。
 雪解けが始まったらあらためて遺体を、収容所まで運び、墓地に埋めてやるつもりだった。あのままひとりでいるのかと思うだけで、哀れでたまらない。せめて、自分の居場所の近くに移してやりたい。
 仲間にどう説明しよう……。
 自分たちは首謀者と深く関わりがなかったから、追放刑十年の判決ですんだ。だからオレグの家族だって、指折り数えて待っているはずだ。あと九年と七ヶ月だと。
 しかし……。
 本当にそれだけの年月を耐えることができるのだろうか。現に、こうして食料を調達しに行ったし、手持ちの金だっていつか底をつくはずである。
 とにかく自然が厳しすぎて、日々生きるのにぎりぎりなのだ。許可がない限り自由に移動もできないし、故郷から荷物を受け取る回数も夏場の年に一度のみと決まっている。
――オレグが生きていてくれたら。
 結局、思いはいつもそこにたどりつく。
 これから先、生き抜くことに果たして耐えられるのだろうか?
 首にぶら下げている石を、服の上で胸に手を当てて確認する。暖かい感触が手袋の上からも少しずつ伝わってきた。
 不思議だ。まるで生きているようだ。
 祈るたび、それは熱を帯びてユーリーの気持ちをほぐしてくれる。村長の掌が頭に触れたときと同じ、あの力が体内に流れてきた。
「うん、ありがとう。もうしばらくなんとか、がんばってみるよ」
「そうだな。自分を信じることだ」
 独り言にマナの父親が答えてくれた。いつも話しかけないと口を開いてくれなかったから、その励ましがとても温かく身に染みた。
 太陽が正午の位置にさしかかったころ、犬ぞりは静かに止まる。
「着いたぞ」
 ユーリーは雪の大地を踏みしめ、父親に何度も礼を述べた。「困ったときはお互い様だ」とだけ言い残し、彼は犬に軽く鞭を当ててそりを滑らす。振り返ることのない主を乗せてそりはたちまち小さくなっていった。
 南に向かってゆっくりと歩き出す。一歩、一歩、確実に。
 ついに仲間たちの待っている村の近くまでもどってきたのだ。
 再会は喜ばしいはずだが、状況が状況だけにユーリーの心臓は、緊張のあまり高鳴りつづけていた。
 帝都からイオーノル地方までは馬でゆうに一ヶ月半はかかり、徒歩だとさらにその五倍以上の時間が必要になる。一応、皇帝が統治していることになるが、実際は地方にとばされた領主の代理たちが広大な土地を治めていた。とてもではないがこんな辺鄙な地方では暮らせないというわけだ。
 春夏秋冬の流れは速く、永遠のように長い冬が終わったかと思うと、たちまち春になり、雑草が花弁を広げるころはすでに真夏。そしてある日、乾いた冷たい風が駆け抜けたかと思うといっせいに紅葉が始まり、愛でる暇もないまま再び冬を迎える。
 一年の半分は雪に埋もれている世界は、住み慣れていない者たちにとって過酷としか言いようがなかった。なにせ温暖な日が短いから、半年間は次の冬を越すために生活しているようなものだ。食料や燃料の確保に明け暮れるだけである。
 そんな厳しい自然でも、先住民たちはたくましく暮らしていた。収容されている村と貧しさはあまり変わらないはずなのに、マナたちの表情は輝いていた。寡黙な父親だって心は温かい。村長も厳しいながら、こうして大切な石までどこのものとも知れない自分に、手渡してくれた。
 すべては精霊のささやきのままに、と言いながら。
 食料は調達できなかったが、きっと突破口はあるはず。寒さとともに長年、生活してきた彼らと出会ったのだから、無理難題なことではない。
「まだか……」
 随分と歩いたような気がして振り返ったが、背後に広がる白い針葉樹の森の姿がはっきりと視界に入る。
「遠いなあ……くそう」
 しばらく歩きつづけていなかったから、身体がすっかり鈍ってしまったようだ。それでも日が高いうちにもどらないと、凍死の危険がせまっていることには変わりない。
 この道を逆に進んでいたときは、傍らにオレグがいた。自分はただ、その後をついていくだけでよかった。
 今はひとりだ。
 迷いが生じても、進まなくては。


 やっと目的地のナザ村に着いたときは、ほのかに地平線が橙に染まっていた。半日ちかく歩きつづけたことになる。
 人々は家でつらい冬を乗りきるから、ユーリーが小さな村のなかを歩いている最中、人はおろか家畜の姿も見られなかった。あまりの活気のなさに身震いする。
――まるで死んでいるようだ。
 ふと、オレグがこの村を初めて見たとき、口にした言葉を思い出す。
 家々の間を通りすぎ、雪で埋もれた広大な畑を突き抜け、丘をのぼる。その上に収容所はあった。
 初めてこの地に流刑された百年前の囚人たちが築き上げたという、粗末だが丈夫な建物は、巨大な丸太をいくつも使っていた。周囲を覆う塀も丸太を縦に打ち込んで作られ、一目見ただけで異様な場所なのだと誰もが思う。
 それでも村の近くにあるのは、ここが主に政治犯を投獄する建物だったからだ。欲望のままに罪を重ねる連中とはちがい、比較的穏やかな空気が流れていた。知的な者も多いから殺伐とした醜い争いも少ない。
 それでも囚人には変わらないから、扱いは粗末なものだった。日に一度のみの食事と、限られた自由時間があるだけだ。自由時間といえば聞こえはいいが、ここは娯楽と呼べるものはなにもない。あるのは死にかけた村と荒涼とした自然だけである。
 その一日の食事すら、ユーリーが出発する前はほとんどなかった。備蓄が底をついてしまい、監視官たちの半分が雪が降る前に村を出てしまうぐらいである。なんでも昨年は冷夏で、作物の収穫がいつもの年の半分ほどしかなかったという。
 運悪くその年にユーリーたちは追放刑に処された。何も分からないまま初めての冬を迎えてしまい、決死の覚悟でオレグとともに街に買出しに行ったのが、半月前のことだった。
 見上げても先が見えない塀のそばを歩き、監視官が待機している門前の詰所の扉を叩いた。すぐに返事があり、小窓からユーリーの姿を確認すると驚いたように、扉を開ける。
「い、い、生きていたのかっ!」
 軍服を着た初老の監視官はまじまじとこちらを見つめ、確認するように肩を叩かれる。
「どうやら本物らしいな。あの天候だったから、もうあきらめていたんだぞ」
「ええ。なんとか。ですが」
 唇を噛みしめる。言葉にするのがためらわれる。
「そうだ。もうひとりのええっと……名前は」
「残念ながら、オレグ・リマンスキーは凍死しました。僕だけある村の一族に助け出されたのです。おかげでこうして、無事もどることができました」
「そうか。それは、大変だったな」
 監視官は悲しい顔をしながらも、気になって仕方がなかったといわんばかりに、すぐに話題を切り替えた。囚人ひとりの死よりも切実なあれである。
「で、食料は買えなかったのか?」
「三日目に行き倒れになってしまって」
「なんということだ……」
「すみません……」
 あまりにも申し訳なくて、他に弁解しようがなかった。
 壮年のクラミフ監視官がユーリーを所長室へ連れていく。出発前に取り決めた約束を反故してもらうためである。
 本来、囚人は許可なく外泊できない。自由時間もごく限られた範囲と時間での行動のみ許されている。だが、食料の備蓄が底をつきそうになったため、副所長は囚人たちに彼ら自身の資金で調達させようと試みた。もし無事に食料をたくさん持ってもどれば、特別に減刑させてくれるという。
 それには約束がいくつかあって、期限内にもどらなければ逆に罪がさらに科せられ、帝国中に、重要犯罪人として指名手配されることになっている。逃亡を防ぐためだ。
 誰もが志願するかと思われた試みだったが、大きな問題が天候である。この時季、まともな装備や食料もないまま、宿場すらない道程を遠出するのは自殺行為に等しかった。
 それでも居残り続けて飢餓にあえぐよりは、わずかな希望に賭けてみたい。
 そうオレグが副所長に意見し、唯一賛同したのがユーリーだったのだ。だからたった二人で、氷の大地を歩いていたのである。
 そしてこの結果。
 食料が手元にあるのならまだしも、ひとりは命を落とし、もうひとりは手ぶらである。
 陸軍大尉である副所長の判断がどうなるのか……。
 緊張した面持ちで、監視官とともに所長室に入る。執務机の椅子にどっかりと腰を下ろして煙管をくゆらせているマルチェンコ副所長が、ユーリーを見るなり咳き込んだ。
「ぐふっ、ぐふっ……! け、煙が」
 クラミフが青い顔をしながら言った。
「大丈夫ですか、副所長?」
 涙目で一度、深呼吸をし、改めてユーリーを見つめる。
 少佐である所長は冬が厳しくなる前に、温暖な地方に帰郷してしまった。大冷害の年はこうなることを知っているから、後に残された副所長の心境は穏やかではないだろう。
「てっきりあの世から舞い戻ってきたのかと……。して、成果はどうだったんだね、ええっと……」
「ユーリー・サラファノフです」
「そうだったか。で、成果は、サラファノフ?」
「その。申し訳ありません。三日目に雪嵐に襲われてしまい、自分たちは行き倒れに。残念ながらオレグ・リマンスキーは天に召されてしまいました。幸い僕だけある村の一族に助け出されたのです」
 副所長のヒゲ面がたちまち曇り、煙管の先で執務机を小刻みに叩く。
「せっかく俺が特別に君たちの意見を汲んで、減刑の機会を与えてやったというのに。……まだ、リマンスキーのほうがえらいぞ。何しろ、ここの食い扶持がひとり減ったのだからな。おめおめともどる余裕があるなら、どこかの村で略奪でもしてこい。先住民の連中、狩が得意らしいから、獣の一頭や二頭ぐらい隠してあったはずだ」
「申し訳ありません」
「謝るだけなら女子供でもできる。この役立たずの軟弱野郎が。だから俺は貴族とかインテリとかいう連中が大嫌いなんだ。理想論ばかりで生存力がなさすぎる」
「申し訳ありません……」
 副所長の言葉がひとつひとつ胸に突き刺さる。
 それにもっともつらいのが、オレグの死を「食い扶持が減った」としか考えていないことだ。自分たちがどんな思いで出て行ったのか、こいつは微塵も理解しようとしないのか!
 頭を下げることしかできないユーリーだったが、ふと似たような光景が頭をよぎる。
 そうだ。バリャコフの犬になって、ビリヤードをしたときに似ている。
 あのときも強烈なまでの怒りの感情を抑えながら、ひたすら頭を下げていた。たとえ怒りをあらわにしても立場に優劣が存在する以上、解決できる問題ではない。それどころか相手が付け入る隙を与えるだけだ。
 副所長は煙管の中身を乱暴に詰め替えながら、クラミフに指示を出した。
「まあ帰ってきたのものは仕方ない。扱いは通常通りのままにしておけ。所長がもどられたら改めて報告しよう」
「ありがとうございます」
「礼ばかりするな。うっとおしい」
 やっぱりこいつ、腹立たしい……。
 怒れるだけ気力がもどってきたのだと自分にいいきかせ、ユーリーはその場を耐えるだけだった。

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