―冬の章 10―
所長室を出ると囚人たちが生活する雑居房に連れて行かれる。四人で一つの部屋を割って暮らしているが、とても狭く快適とは程遠い。これといった暖房も用意されていないから、囚人たちは支給された古い毛布にくるまって過ごすしかなかった。
長い廊下を棟の監視官とともに歩いていると、鉄格子向こうの房という房が、こちらを凝視する。顔見知りの連中は嬉しそうに声をかける。
「食料だ! 食料を早くくれっ!」
痩せて憔悴しきった囚人たちの瞳がらんらんと輝く。ここに収容されたばかりのころは、まだ理知的な表情を誰もが持ち合わせていたが、飢えの日々が彼らを様変わりさせてしまった。しかもユーリーがオレグとともに出発する前より、状況が悪化している。
とてもではないが、視線を合わせることができない。
肝心の食料はないのだから。
うつむいたままのユーリーに、知っている男の声が届いた。
「リマンスキー君はどうした?」
ペトルシキンだった。丸眼鏡をかけたかつてのアリョーヒン伯爵家の秘書である。
「すみません……」
ユーリーは首を横に振るだけで精一杯である。それで聡い彼はすべてを察してくれたようだ。悲しそうな視線を投げかけるだけだった。
ある房の前で監視官が止まる。ユーリーが収容されている房である。共に暮らしていた三人は無事だったが、中に入るなりひどくやつれた姿に衝撃を受ける。
「トーシャ……」
半月ぶりの再会にトーシャは反応しなかった。寝台の上で毛布にくるまったきり、動こうとしない。眼窩がくぼみ、肌は栄養失調のためひどく乾燥して、鱗が貼り付いたようになっていた。
まだ十七になったばかりだというのに。一番若い彼がどうして……。
「食料はないのか?」
トーシャの向かい側の寝台に座っているダニールが、頭から被った毛布を外しながらそう言った。
「いや。三日目の雪嵐で行き倒れになってしまった。オレグは助からなかった」
「……最悪だな」
「すまない」
黒い巻き毛のダニールはユーリーと同じ歳で、気が強いことで知られている。オレグともたびたび衝突していたが、何もかも相手が上手だったから悔しまぎれの捨て台詞ばかり吐いていた。
「おまえがあの世ならまだしも、あの男は生意気だがペトルシキン以上に指導力はあるからな。無駄死にもいいところだ」
「……」
ダニールの言うとおり、誰もがそう思っているにちがいない。せめてオレグだけでももどってきたら、まだ希望は残されているのではなかったのか、と。
「おいおい。せっかく命が助かったんだ。少しは再会を喜べないのかい?」
右手奥側の寝台に腰掛けているコンドラートが、呆れた顔でそう言った。長い茶色の髪を後ろで束ねた彼は、かつて帝都の印刷所で風刺記事を書いていたため、さほど年齢は変わらないのに、ユーリーたちより世間のことをよく知っていた。
すぐにダニールが反論する。
「こんな事態にお世辞なんか使えるかよ。望みの食料調達は消えて、しかも役立たずがまた増えた。これで食料の減りが早くなるな」
「まったく君は、口が悪すぎる。だからオレグにいつも――」
ここでコンドラートは口元を押さえ、涙を流した。小さな嗚咽が雑居房に響く。
さすがのダニールもこのときばかりは、口を開くことができないようで、苦々しい表情でうつむいてしまった。
そのとき緊張の糸が切れたのか、ユーリーの目からもどっと涙があふれてしまった。
やっとオレグの死をともに悲しめる仲間に再会できたのだと。
翌日の自由時間になると、誰もがユーリーにオレグのことをきいてきた。
収容所の周囲は鄙びた村しかなく、周囲も広大な大自然が広がっているだけだ。だから午後になると遠出しない限り、囚人たちは自由に表に出入りすることも可能だった。村にももちろん出歩ける。
ただし夕刻の点呼までにはもどらないと、翌日の食事抜きのうえ、独居房に閉じ込められてしまう。ここはまったくの暗闇で、三日も入っていると気が狂うとも言われていた。
だから自由時間といっても収容所の周囲を散歩するぐらいしかできなかった。
もし仮に脱走しようにも、旅券がないととてもではないが国境越えはできないし、物を買おうにも商店そのものが歩いて五日もかかる街までしかいかなくてはならなかった。そこに到着する前に餓死してしまってもおかしくない。おまけに重要犯罪者として指名手配されてしまえば、発見され次第銃殺にされてしまうから、おとなしくしていたほうが命が助かる率がかなり高い。
現にオレグは雪の中で果ててしまった。それが余計、囚人たちの心を萎えさせてしまうのだった。
収容所にいる三十数人のうち七割の囚人は、同じ事件で追放刑を受けていた。帝都でかつてない大規模な蜂起があったのだが、志半ばにして帝国に鎮圧されてしまったのである。命あるものは次々捕らえられ、なかには亡命したものもいたらしい。噂では莫大な賄賂を宮廷官吏たちに贈って、国外に逃げ出したのだといわれている。
しかし大半のものたちにそんな大金があるわけでもなく、おとなしく全国にある収容所に散らばり、刑を受けるしかなかった。
ユーリーがオレグのことについてひととおり説明し終わると、その話はたちまち他のかつての同志たちに伝わる。食料がないこともはっきりとしたためか、もう無事を喜んでくれるものはいなかった。いつものように何もない空白の時を、ぼんやりと過ごすだけである。
表に出ても凍えるだけだから、雑居房でじっとしているしかない。トーシャは昨日再会してから、まだ一度も口をきいてなく、このままではいつ命を落としてもおかしくないと誰もが思っていた。
ユーリーは毛布を被って寒さをやりすごす。一日でも早く春になって欲しい。
暦ではあと一月もしないうちに、雪解けが始まるはずだ。大地が土色をあらわせば、食料だってどうにかなるにちがいないし、来年の冬のために畑を作るという方法もある。
それまでなんとか持ちこたえなくては……。
話をしようにも体力が惜しいから、コンドラートもダニールも寝台の上でじっとし、毛布を被って空腹と闘っていた。
鉄格子の開く音がした。顔を上げると、丸眼鏡のペトルシキンが手招きしている。
「ユーリー、ちょっといいかな? もう少しリマンスキー君のことをききたいんだ」
「ええ。僕で話せることなら、いくらでも」
「ありがとう。では寒空の散歩でも行くか」
「ええ?」
どうしようもないぐらい寒いのに、どういうつもりだ? こんな日に散歩する物好きなどいやしないぞ。
憮然とするが、あることに気がつく。
そうか。誰もいないほうが都合がいいのか。
ユーリーはうなづいて立ち上がり、房を出た。コートも手袋もブーツもすでに着込んでいるから、そのままの格好で出るだけでよかった。
詰所の前で外出届の記帳をし、二人は雪の丘を下った。昨日も空は青かったが、今日もまぶしいぐらいである。空気はどこまでも乾いて冷たく、深呼吸してしまえば肺が凍ってしまうそうなぐらいだった。
ペトルシキンは丘のふもとの雪をかき集め出した。
「何をしているんです?」
ユーリーがたずねると、背中を向けたまま彼は答える。
「穴を掘ってそのなかで話そう。少しでも寒さをしのぎたいだろう?」
突拍子のない行動に、思わずユーリーは吹き出す。
「あはは。ペトルシキンさんって面白いですね。僕、そういうところが大好きですよ」
「笑う暇があるなら、手伝ってくれ」
「はい。もちろんです」
ユーリーも両手で穴を掘る。二人では大した深さにはならなかったが、身を沈めるとたしかに寒さが和らぐ。兎になったような気分で、またユーリーは笑った。
「リマンスキー君が、君を好いていたのがよく分かるよ」
傍らでそうつぶやくペトルシキンに、ユーリーは眉をひそめた。
「突然なんです?」
「だから言ったとおりだ。君がいたからこそ、彼はここまで生き延びてきた。もし彼ひとりだったら、とうの昔に命を奪われていただろうな。君も知っているとおり、彼はかなり無茶をしていた。憎悪で前が見えない人間ほど、手に負えないものはない」
とつとつとペトルシキンは語る。今まで胸に秘めていたであろう思いを。
ユーリーの鼓動が早くなった。
のんびりとした印象に反して、彼はかなり賢い。オレグと自分だけしか知りえないことも、彼なら見抜いているのかもしれない。
神妙な気持ちで話のつづきを聞く。
「だけど君がいたから、彼は思いとどまることができた。追放刑十年ですんだのも、不幸中の幸いだ。革命の中枢に関わってしまった連中は、公開処刑されたのは君も知っているだろう?」
「ええ……」
あのとき見た光景が脳裏によみがえり、思わず震えが出てきた。大勢の人々の前で、容赦なく銃弾を浴びせるあの光景が……。
「リマンスキー君がそのなかのひとりにならなくてよかった。この若さで命を落としたのは悔やまれるが、最期まで君とともにいられたのだから、それだけでも随分幸せだったと僕は思うよ。君は決して役立たずじゃない」
にっこりと微笑むペトルシキンにユーリーは、心の底から救われる思いがした。
――役立たずじゃない。
その言葉がどんなにありがたかったことか。
ユーリーもありったけの笑顔を、相手に見せた。
「ありがとう、ペトルシキンさん」
「いえいえ。随分と落ち込んでいるから、少しでも励ましになれて光栄だよ」
「オレグもきっと喜んでますよ」
「だといいがな」
ペトルシキンは立ち上がると、脚を大きく上げて穴を出る。ユーリーもそれにつづいて、丘の上の収容所にもどることにする。長時間話そうにも、この寒さではこれが限界だろう。
その道すがら、ふと思い出したようにペトルシキンは言った。
「リマンスキー君は何か言い残してなかったかい?」
記憶をたどってみるが、思い当たることはなかった。
「いいえ。眠るように気を失いました」
「そうか……。彼のことだから、この状況を前もって察知してたはず。何か残しているような気がしてならないのだが」
「遺書……ですか?」
「まあそんなところだ」
死を覚悟してたなど、オレグは一言も自分に言ってなかった。何がなんでも、食料を無事、仲間に届けるのだと強い意思で、語っていたぐらいだ。
「心当たりはないです。それなら僕のほうこそ、とっくに用意してますよ。まだオレグは雪の中に埋もれたままですし、ここで言い合っても、仕方ないんじゃ……」
「言われてみれば、そうだな。考えすぎか……」
悪かった、と付け加え、ペトルシキンはまた笑みを見せてくれた。
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