―冬の章 11―
トーシャの容態は日に日に悪化していった。壊血病で歯茎からとめどもなく血が流れ、話しかけても反応がない。意識が混濁しているようだ。
ダニールとコンドラートも体力がないから、毛布を被ってじっとしていることかできない。だから比較的元気なユーリーがトーシャの看病をしていた。
看病といっても血まみれになったタオルを、雪を溶かした水で洗うだけだ。薬もなく、食べ物は日に一度の粥のみ。具はわずかな穀物。壊血病には青菜や柑橘類がきくのだと知ってるものの、肝心の食料が手に入らない。
あらかじめ別に確保されている監視官たちの食料を頼み込んで分けてもらう方法もあるが、彼らもぎりぎりなので頑なに首を振るだけなのは目に見えている。あのふくよかだった副所長でさえ、最近では頬がこけてしまっていた。
このままではやがてダニールやコンドラートたちも、トーシャと同じようになってしまうのも時間の問題だろう。
空腹のあまり、マナに差し出された温かいスープが目の前によみがえってきた。
同じスープのはずなのに、彼らが食するものは身体の芯まで温まり、あれほど悩んでいた浮腫みがなくなってしまった。マナが言っていた「ジャガイモ」なるものがいつも入っていたから、そのおかげとしか考えられない。
ジャガイモ……。
ユーリーはタオルをたたみ直すと、それをトーシャの顎にあてて血を拭いてやった。
もしかしたらふもとのナザ村に行けば手に入るかもしれない。異なる民族同士とはいえ、長年この地方に住んでいるのだから、ジャガイモを栽培している農家があっても不思議ではない。
「行ってくるよ」
誰からも返事はない。
ユーリーは静まり返った雑居房を出て行った。自由時間は始まったばかりだから、夕刻までは村を回りきれるだろう。
収容所の外には誰もいなかった。あるのはいつもと同じ白い雪の大地のみ。だが降り注ぐ日差しがわずかだが、温かみを帯びてきたのもわかった。
春は近い。あと少しだから、なんとかそれまで持ちこたえて欲しい。
やつれ果てた仲間たちの顔を思い浮かべながら、ユーリーはふもとの村へと降りていった。
村へ食料をわけてもらうために、ユーリー以外にも訪れるものがいることは知っていた。しかしやはり彼らもぎりぎりの生活だから、いくら金を出しても意味はないことも知っている。金を使おうにも街まで行く手段がないし、冷害になると食料そのものが出回らないから、当然物価は上昇する。貧しいものたちが買えるような値段ではない。馬は村には痩せ細ったのが一頭しかいないし、あまりにも寒くて使い物にならない。
マナたちのように犬ぞりを使えばいいのだろう。しかし自分たちの感覚では犬はあくまでも狩猟の供。とてもではないが、人を牽引するような残酷な仕打ちは考えられない。それは馬の仕事である。
ふもとの村には学校がないから、雪のない間、子供たちに読み書きを教えたり、本を読んでやったりするのも政治犯である彼らの仕事のひとつだった。その報酬として穀物をわけてもらうことなっていたはずだが、冷害のためまったく今年はそれがなかった。以前から収容されている囚人たちがそう言っていたと、ペトルシキンが教えてくれたことを思い出す。仕方ないとはいえ、せめてそのときの百分の一でもいいから、食料が欲しい。
あのこぶし大の芋ひとつあれば、トーシャは助かるのだ。
村に活気は微塵も感じられなかった。広葉樹の幹を氷が覆い、太陽の光を反射してきらめている。神秘的な光景だが、見慣れた今となっては憂鬱以外のなにものでもない。
まず目に付いた一軒の扉を叩く。
「すみません。丘の上の者ですが、食料をわけていただけませんか? 僕の友人の命が危ういんです。ジャガイモのひとかけらでもいいですから、お願いします」
物音一つしなかった。それでも煙突からは薄い煙が立ち昇っている。
仕方ない。次をあたろう。
ユーリーは踵を返すとその向かい側の家の扉を叩く。
さきほどと同じ言葉を繰り返し、食料を乞う。やはり反応はなかった。
そして次の家、また次の家と扉を叩くのだが、扉を開けるものはなかった。寒さだけが身を蝕んでいき、やがてユーリーの心までも朽ちていく。
「嘘つきばかりだ。おまえたちはあのとき、食料をわけてくれると言ったはずじゃないか。そんなに僕らのことが嫌いなのか……?」
ある扉の前に立つと、思わずそんな言葉が口をついて出てしまった。かすかな物音がし、ほんのわずかに扉が開く。
「おまえさん、丘の上の人かい?」
枯れた老婆の声だった。
やっとまともな反応があったにもかかわらず、気持ちは萎えたままである。
「ええ。友人が死にそうなんです。だから食べ物を。ジャガイモのひとかけらでも」
「そんなことしたらあたしらが倒れちまう。村長だってここまでひどくなるとは思ってなかった。恨むのも筋違いだ」
「……」
無理強いはできず、そのまま諦めるしかなかった。一言侘びをつげ、ユーリーはその場を去ろうとした。
「お待ち。おまえさん、ジャガイモと言ったね?」
さらに扉が開かれる。赤い花柄のスカーフを頭に巻いた老女が、大きな目の皺だらけの顔をのぞかせる。
「ええ」
「それがどういう意味か知っているかい?」
「どういう意味って?」
「その顔じゃなんも知らんようじゃ。悪いことは言わん、二度とその言葉を口にするでない」
「どうしてです?」
「口にするのもおぞましいわ」
「はあ……?」
パタンと扉を閉められてしまった。
なんのことかさっぱり意味がわからず、ユーリーは首をかしげるだけだった。
その日は案の定、まったく収穫がなく、失意のまま収容所にもどるしかなかった。
やがて夜を迎え、凍える身体をさすりながら朝が来るのを待つ。
「お母さん…………」
真夜中の雑居房で誰かがそうつぶやいた。声の主はユーリーの手前側の寝台である。
「トーシャ?」
よかった。意識をとりもどしたんだ!
ユーリーは寝台から飛び起き、暗闇のなか目を凝らす。トーシャのそばに寄ると手袋を外し、その手を力強く握ってやった。
「…………」
息を呑む。
冷たい。まるで氷のようだ。
雪の中で気を失ってしまったオレグのときと同じように。
「トーシャ?」
呼吸が感じられない。
「起きるんだ、トーシャ」
返ってくるのは沈黙のみ。
「君まで逝かないでくれ、頼む……」
それから何度も呼びかけたが、反応はなかった。
目を覚ましたダニールとコンドラートもトーシャの頬に触れ、代わる代わる彼の手を握る。
しかし誰も涙を流すことができない。
流せるだけの気力が残っていなかったのである。
若葉の匂いが春を教えてくれた。白かった大地は跡形もなく、あるのはどこまでもつづく緑の野だ。青い空に雲が流れ、頬をなでる暖かい風は心を和ませてくれる。
そんな草原に一本の大樹があった。誘われるように前へ進んで行くと、ひとりの男が木陰で本を読んでいる。難しい顔をしながら背を幹にあずけて立っていた。
知っている男だ。それもそのはず。
「オレグ!」
呼びかけると、彼はゆっくり本から目を離し、無表情のままこちらを見つめた。
「どうしたその顔は?」
「え?」
「何をひどく怯えている?」
「それは……」
トーシャの最期が脳裏によぎった。
たちまち膝に震えが走り、その場に崩れ落ちた。
「怖い、僕は怖い。僕の行く道には何もない。あるのは喪失だけだ」
「そうか」
いつものオレグなら、ともに感情を分かち合ってくれたはずだ。
しかし冷たいまなざしで自分を見つめるだけである。
「残念だが私は何もしてやれない。おまえとはちがう世界にいるからな」
見捨てるような言葉を投げられ、さらなる失意が気持ちをふさぐ。ただ、震えることしかできず、春の日差しも薄ら寒くてたまらなかった。
大樹がざわめいた。はらはらと黄緑の葉が散る。
オレグが手をかざすと若葉が彼の掌に降り積もり、一つの形を作り上げていった。それをそっと差し出される。
白い小さな花だった。一つの茎にたくさんの純白の花を咲かせ、黄色の芯が鮮やかである。見たことがあるが、それがなんだったのか思い出せない。
「大地の精霊がおまえに渡してくれと言っている」
「僕に?」
「ああ。そのために私はここまで連れてきたのだから」
「導きし者……」
占い師や巫女の村長が言っていた言葉だ。オレグはすでにそれが何であるのか、知っているのだろう。
花を受け取ると、手と手が触れた。すでにこの世の者ではないはずだが、不思議と温かい。
「オレグ!」
たまらなくなって抱きつかずにいられない。
堪えつづけていた孤独感が一気に胸の内からこみ上げてきた。
「すまない、ユーリー」
オレグの腕が自分をゆっくりと抱きしめた。その力強さが気持ちをいくらか落ち着かせてくれる。
「すまない、すまない……。俺が寂しいとき、おまえはいつもそばにいてくれた。なのに俺はおまえに何もしてやれない。こうして抱きしめてやることすらできない」
「オレグ……」
「すまない……」
それ以上、二人の口からは言葉が出てこなかった。
ただ、ただ、お互いの体温を感じるだけでよかった。
「夢……か?」
鉄格子向こうの廊下から漏れる明かりで、ユーリーは目を覚ました。
あまりにも現実めいていて、凍えきっているはずの身体は温かい。胸に手をあてると、あの桃色の小石がいつも以上に熱を帯びていた。
そうか。昨夜、トーシャが息を引き取ってから、ずっとこの小石に祈っていた。
オレグに会いたいと。
あのまま向こうの世界に連れていかれるかと思っていたが、どうやら自分にはまだ成すべきことがあるらしい。それが何なのかは判然としないものの、オレグが見守ってくれていることがわかっただけでも嬉しかった。
気を取り直し、寝台から立ち上がる。トーシャの遺体には毛布が掛けられ、顔を白いハンカチが覆っていた。トーシャの持ち物にあった白いレースのハンカチには、知らない女性の名前が糸で刺繍されている。
最期の最期、彼は母親を求めていた。もしかしたらそれが母親の名前なのかもしれない。
――どうか、トーシャに安らかなる死を。
ユーリーは両手を組んで跪くと祈りを捧げ、ハンカチの主にも共に祈ってくれるよう願いをこめた。
監視官にトーシャの死を告げると、彼らは事務的に後始末をした。手馴れているもので、他の仲間たちが知るころには、トーシャは綺麗な姿で棺のなかにおさまっていた。
まだ雪が多いこの季節、墓を掘ろうにも大地は凍っている。数日前にも壊血病で命を落とした囚人が三人いて、四つの粗末な棺とともに彼は、遺体安置所で春を迎えることになる。
かつての仲間たちがトーシャに会いに遺体安置所を訪れていた。しかしそれもごくわずか。いつ自分もあの部屋に運ばれるのだろうかと、戦々恐々としているからだろう。死者に別れを告げる精神的余裕がなかった。
ユーリーは空になった寝台を見つめながら、今朝の夢を思い起こす。
もしあれが単なる夢でないのならば、トーシャもきっと花咲く美しい野原にいるにちがいない。そこは暖かくて飢えもない場所だから。
オレグ……。
君が寂しかったなんて、僕は知らなかった。
いつも強くて行動力もあって、時々ひどく落ち込んでいるのはわかったけれど、それでも寂しそうな素振りは見せなかったよね。
それとも君のその憎しみは、孤独からくるものだったのかい?
いつも一緒にいたけれど、肝心なことはお互い知らなかったのかもしれない。
もっと早くそれに気がついていれば、僕たちはまた今とちがった道を歩いていたかもしれない。
後悔してもすべて遅いけれど……。
この道もすべては神があらかじめ定めたものなのか?
精霊が僕をこの大地に呼んだ、と言っていた。
いったい何のために。
こんな非力な僕に何を求めているんだろう。
「どう思う、オレグ?」
ぽつりとそうつぶやいたとき、鉄格子の向こうからクラミフ監視官が呼びかけた。
「サラファノフ、面会人だ。ナザ村の村長だ」
村長が?
面識はほとんどないのに、なぜ?
「あの、僕にどんな用件が?」
「渡したいものがあるらしいぞ」
「ええ? まったく身に覚えがないんですが……」
「とにかく面会だ。ま、村長だから悪いようなことは言わんさ」
クラミフに連れられ、ユーリーは滅多に使われることのない面会室へと歩いていった。
中に入ると、あご髭をたくわえた老人が、帽子を取って会釈する。
「どうもです。金髪と青い目の若者と、ターニャ婆さんは言っとった。たしかにそうですな」
「昨日、外出許可を出したのは彼だけですから」
自信たっぷりにクラミフはそう答えた。
「なるほど。それなら間違いないの」
村長は床に置いてある麻袋を広げると、中味を取り出し、ユーリーに見せる。
「君が探しておったのは、これじゃろう?」
それはまさしくジャガイモだった。マナが見せてくれたものの半分ほどの大きさだったが、色と形となにより窪みがその証である。
「たしかにそうです! うわっ! 本当にジャガイモだ!」
嬉しさのあまり受け取ったジャガイモに、口づけをする。
唖然とした顔で村長が言った。
「まさか食うのか?」
「ええ、もちろんです。僕はこれで救われたのですから」
「地獄に堕ちるぞ」
「そうですか…………て、ええっ!」
ユーリーは目を見開き、ジャガイモと村長を交互に見つめた。
「地獄って、本気ですか?」
「本気も何も、司祭さまがそうおっしゃっておる。わしらは怖くてとてもじゃないが、食えんよ。地獄に堕ちるぐらいなら、餓死して天国に行ったほうがマシだ」
「しかし、先住民族の人たちはしっかり食べてましたよ?」
「あやつらはケダモノに近い。だから天国も地獄も関係ないんじゃろ」
今度はユーリーが唖然とする番だった。
「ではどうしてあなたがこれを?」
苦々しい顔で村長はため息をついた。
「秋に獣の毛皮を求めに、先住民族の村に行った。それと引き換えにわしらは穀物を持っていく。しかし、この冷夏で獣もあまり獲れんかったらしい。手ぶらでもどるのもなんだから、とこれをわけてくれよった。まあ家畜のえさにちょうどよいから、そのつもりで蓄えておったが……」
「家畜にやるぐらいなら、僕らにください。お願いします。もちろん、代金は払いますから」
「ああ、わしらも金で物を買うほうがまだええ。こんな悪魔の食い物など、家畜も喜ばんからな」
昨日あれだけ探したというのに、こんな簡単に向こうからやってくるとは。
忌々しい食べ物だから、村の人は警戒して出てこなかったのだろう。それでも熱心に家々を訪れていたから、村長がこうしてやってきてくれたのだ。
「ありがとうございます。このご恩はきっと、いつか必ずお返しいたします」
帽子を被りながら、村長は笑みをみせる。
「いやいや。正直、わしもこいつの処分に困っとった。まさか金まで払って買う物好きがいるとは、驚きじゃよ」
ユーリーは上着の内ポケットから銀貨一枚を取り出し、村長に渡す。彼は銀貨をすばやく懐にしまうと、面会室を上機嫌で出て行った。
やりとりを見守っていたクラミフも、奇妙なその食べ物に興味津々である。手に取り、食べるか否か、迷っているようだった。
その日の昼食のスープにジャガイモが入っていたことは言うまでもない。
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