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苦しい。息ができない。
苦しい。息ができない。
胸が焼けるように熱い。
助けて。
助けて!
オレグ様!
「ゆ、夢か…………」
ユーリーはゆっくりと身体を起こし、早朝の光を浴びていた。
寝汗で身体がじっとりと冷たい。もう晩秋だというのに、毎晩、こうして大量の汗をかいてしまうせいか、睡眠をとった気がしない。
まただ。またあの夢。
アリサの悲痛な叫び。
自分は関係ないまったくの他人だというのに、どうしていつも夢枕に現れてしまうのだろう。傍観する状態ならまだしも、完全に彼女と一体になって、その瞬間の苦しみを味わってしまう。母親に容赦ない平手打ちを食らう夢を見ることもあり、なんともいえない悔しさまで味合わされることもあった。
それだけではない。おそらく彼女とオレグが逢瀬していたであろう、そのひとときまで夢に見てしまう。きつく抱きしめられるたび、自分の胸を満たすのはなんとも言いがたい、寂しさと空しさだった。
オレグとはレイラ嬢とともに馬車に乗った日から、一度も会っていない。もういないものとして扱って欲しいと彼自身は言っていたし、ユーリーもそのつもりだった。決して納得はできないが、あの状況ではどうすることもできない。
しかしそんな決心とは裏腹に、毎晩のようにアリサと一体になってオレグの夢を見てしまう。あれから一ヶ月も経過したのに、これではまるで一方的に捨て去られたような心境である。
「いいかげん、僕を解放してくれ、アリサ……」
この言葉をつぶやくのも日課になってしまった。
朝食をとる気力もなく、顔を洗って着替えをすませると、そのまま再びベッドに横になってしまった。疲れがとれないせいか、このごろは講義中、眩暈を感じてしまうこともある。
おかげで成績も落ちる一方。そんな自分に投げかけられる言葉は「そんなにリマンスキーが恋しいのか?」である。馬鹿にしている。そこまで依存しきっていたわけではないというのに。
あの緑の小石のついた首飾りが原因とは思いつつも、肝心のそれはオレグに別れを告げられた日以来、紛失したままだ。
ユーリーは鉛のように重い身体を起こすと、首飾りを探す。自室は狭いからあればすぐに見つかるはずなのに、今日もなかった。これも日課になりつつある。
足音がした。
反射的に扉のほうを振り返る。
「……誰だ?」
返事はない。気のせいだったのか?
オレグはもう士官学校にはいないというのに、相変わらず何者かの視線を感じずにはいられない。明らかに見張られている。
これもまたユーリーを憂鬱にし、自室でゆっくり休むことを妨げてしまっている。かといって、どこに行ってもオレグのことをきかれてしまうし、ひどいときは揶揄されてしまうから、黙って逃げ出すしかない。
……いっそ、誰もいないところへ行って、消えてしまいたい。
数日前から常に頭のなかを駆けめぐる言葉がそれだった。
朝一番の講義が始まる。
この日も変わらず膨大な資料と数字が待っていた。少しちがうのはそれを同科の連中の前で発表することである。そしてそれについて討議し、どこを改善すればよいのか意見を述べなくてはならないことだ。
おかげでぼんやりすることもできず、ユーリーは霞がかかった思考のまま、学生たちの発表を聞くことになる。当然、頭にまったく入らない。
…………闇だ。
聞こえるのは母親の叫び。
いや、自分?
苦しい。
胸が焼ける。
助けて、助けて……!
「助けてくれ、オレグ!」
我に返る。室内にいるすべての視線が自分に集まっていた。
ユーリーは蒼白になるのを感じずにいられない。
うたた寝をして、例の悪夢を見てしまったのだ!
「やっぱりあいつが恋しいんだろう?」
隣席にいる学生がからかうようにそう言うと、どっと笑いが起こった。ただし教官だけはひきつり笑いを見せている。ユーリーの前にやってくると、教鞭棒で机を小刻みに叩いた。
「サラファノフ、やる気はあるのかね?」
「はい……」
「前々から思っていたが、このままでは単位がとれないぞ。下手すれば留年だ」
「……」
「それに健康管理も重要な職業軍人の仕事だ。その顔では、まともに寝食していないだろう?」
これも図星だった。言い訳などできるはずもなく、黙って頭を垂れるしかない。
「もう今日は寮にもどって休め。使いものにならんからな」
一言詫びを述べると、ユーリーは恥ずかしさで顔を赤くしながら、手早く机の上を片付ける。たくさんの視線を浴びながら、講義室を出て行くしかなかった。
いったん寮にもどったのだが、やはり何者かが自室を見張っているようで、なかに入るなりごくわずかな足音が聞こえてしまった。このごろは敏感になっているから、すぐにわかってしまう。
「ちくしょう。僕を眠らせない気かよ!」
忌々しく小声でそうつぶやく。
仕方なく、別の場所で睡眠をとることにした。この時間なら遊戯室がいいだろう。あそこは自由時間にならないと、人は集まってこない。絶好の場所だ。
隅にあるソファに横になると、たちまち睡魔が意識を支配し、深い眠りに落ちた。
「珍しいな。金髪の子犬がいるぞ」
どれぐらい眠っていたのだろう。聞き覚えのある声で目覚めた。
ユーリーの視界いっぱいに、あの小太りバリャコフの顔が映る。
「うわっ!」
飛び起き、反射的にそう叫んでしまった。
「まさか貴様も講義をさぼっていたとは……。リマンスキーがいないせいで、すっかりだらけたようだな」
バリャコフは意地の悪い顔でこちらを見つめるのだが、以前のような勢いはなかった。大勢の学生たちの前で、オレグにさんざん打ちのめされた日から、しばらく学校を休み、再び顔を見せるころにはすっかりおとなしくなっていた。
ユーリーは前髪をかきあげ、周囲を見回す。まだ日は高く、昼過ぎといったころだ。
「失礼します」
こいつとは関わりたくないから、すぐさま立ち上がり遊技場を出る。が、相手に思いっきり手首をつかまれてしまった。振りほどこうとしても、放してくれない。
「待てよ。少し話したい」
「僕は何も話したいことはありません」
「……だから、そう警戒するなって。リマンスキーのいない貴様なんぞ、私には価値がないのだからな」
「え?」
いつになく覇気のないバリャコフを見ていると、少しだけなら相手にしてやってもいいかと思った。それだけ彼に元気がないともいえる。
ユーリーが再びソファに腰を下ろすと、バリャコフも少し間を開けて端に座る。
「あの、話って?」
膝で頬杖をつき、彼は答えた。
「貴様、あいつのことどう思ってる?」
「それ前にもおっしゃいましたよね? 僕があなたの屋敷を訪れたとき」
「ああ。私はあいつが今でも羨ましくてたまらない。なのに貴様はまったくそう思っていない。なぜだ?」
その言葉こそ、ユーリーには意外に思えてたまらない。
「羨ましいって……。あなたは伯爵令息じゃないですか。欲しいものはなんでも手に入れられますし、オレグが一番欲しかったのも、きっと」
ここまで言ってあらためて考えてしまう。
オレグが欲しいものとは、貴族としての血筋だったのだろうか。
「たしかに私は伯爵の息子だ。しかしリマンスキーのように、射撃も剣術もうまくない。頭も良くないから講義もついていけない。おまけに貴様のような対等の友人も、婚約するような愛しい恋人もいない。あるのは高貴な身分だけだ」
そう語るバリャコフの目は、どこまでも遠かった。威勢を張っていたころとはまるで別人である。
「なのにあいつは、私を目の敵にしていた。何が不満だという? 私におとなしく頭さえ下げていれば、レイラ嬢と婚約なぞしなくても、何もかも手に入れられたかもしれないというのに。あれだけの逸材なら、すぐに出世するさ」
「それは……」
ユーリーは答えられない。自分にだってわからないのだから。
「すみません。僕もそこまで彼のことは」
ため息をつき、バリャコフは肩をすくめた。
「だろうな。あいつは秘密主義だ。というか、前にも貴様が言ってたとおり、強がっているから、誰にも本心は見せてないだろうよ」
お互いただ蛇蝎のごとく嫌っていたのかと思っていたが、バリャコフなりにオレグのことを観察していたようだ。本当に嫌いならば、ああもムキになってまで陳腐な喧嘩などしないだろう。
持つものと持たざるもの。それは表裏一体なのかもしれない。お互い不足しているものを補うのではなく、反発して遠ざける。両者の誇りが高ければ高いほど、誰の目から見ても明らかなほどに。
ここでユーリーは立ち上がり、今度こそ遊技場を離れるため、一言断りを入れた。
「待て、まだ話はある」
「……まだですか?」
半ばうんざりしながらも、仕方なく腰を下ろす。
「アドリアン・グリエフがリマンスキーと通じているらしいぞ」
「え……?」
ユーリーの脳裏に、反省房を訪れる優美な貴公子の姿が浮かぶ。
「なんでも無二の友だそうだ。そんな噂が屋敷にもどったとき、私の耳に入った。いつからあいつらそうなった? 貴様ならわかるが」
「グリエフ様が? でもオレグは彼を……」
「あいつは上級貴族を毛嫌いしていたからな。掌を返されたようで、私も不愉快でたまらん。出世のためなら誇りを捨てられるらしい。所詮、平民だ。笑わせる」
「そんな……」
ユーリーは蒼ざめていく。
あのオレグが。
友人などいないといっていたのに。
しかしどうして?
バリャコフの意地の悪い笑い声がした。
「あいつのことは忘れてしまえよ。薄汚い本性が出てきただけだ。悪名高き金貸屋の息子だからな」
ユーリーは言葉を失ったまま遊技場を立ち去った。
ひどく裏切られたようで心が悲痛な叫びを上げている。いや、この声はアリサだ。
しかしどこまでも胸が痛い。やはりこの声は自分のものなのだろうか……。
バリャコフと話した翌日も講義をすべて欠席してしまった。
オレグがグリエフと無二の友だということを知らされてからというもの、全身の力が抜けてしまい、何ひとつ手につかなかった。
それでも思い出だけは嫌というほど残されている。学校にいる限り、オレグと過ごした日々が巡るように頭のなかを駆けてゆき、どこにいても気が休まらない。
――休学しよう。
ユーリーはさらにその翌朝、そう決断した。
アリサの悪夢にも悩まされているし、常に何者かに見張られているし、成績はまったくふるわないし、ここにいる意味がないと思えるようになってしまったからだ。一年ぐらい実家にもどって休めば、気分も落ち着くかもしれない。
実家は実家で兄家族との問題があったものの、ここよりはるかに過ごしやすい。何より好奇の目がないのが嬉しい。
夏期休暇で故郷の父に再会したとき、あまりの老けようにユーリーは愕然としたのを思い出す。てっきり雷を落とされると思っていたのに、おまえの好きなようにしろとまで言われ、代わりに小言を怒鳴り散らすのは兄の役目になっていた。
兄も厳格な父を嫌っていたはずなのに、いつの間にか立場は逆転してしまったらしい。言葉の端々に昔の父の面影が乗り移っていた。それが自分や母だけならまだしも、まだ幼い甥たちにもいってしまうのだから、それが心配の種になりつつあった。
どうやら甥には自分と同じ血が濃く流れてしまったらしく、花を愛でるような優しい性格の持ち主になってしまったようだ。それが兄には腹立たしいから、事あるごとに厳しく接している。そんな兄をなだめるのが、夏期休暇に帰ったユーリーの仕事になってしまったほどである。
そうだ。帰郷するのなら、土産も買っておいたほうがいい。菓子にひどく喜んでいたから、今度はもう少し多めに持って帰ろう。
自室の隅に置いていた大きな鞄を開ける。荷物の分量を考えて、どれぐらい買えるか計算するために。
緑の輝きが見えた。
息を呑む。
アリサの首飾りがそこに入っていたからだ。あれだけ探したにもかかわらず、まさか鞄のなかだとは予想もしていなかった。
そもそもこれは夏期休暇が終わり、寮にもどったとき荷物を出して、それから手を触れていなかったはず。首飾りを見つけたのも、それからずっと後のことだ。
「どういうことだ?」
おそるおそる手にとってみる。緑の輝きは変わらないが、まとわりついた髪の毛の量が増えたような気がしてならない。反射的に鞄にもどしかけた。
――あの人を見捨てないで。
「アリサ?」
そんな声が心のなかに響いてしまった。
あの人とはオレグのことしか考えられない。
けれど……。
「ごめん。彼は僕の手の届かないところにいってしまった。どうすることもできない」
そう言って、素早く鞄の蓋を閉めずにいられなかった。
昼に担当教官に事情を説明し、休学届の用紙を用意してもらう。あっさりと承諾してくれた。無理もないだろう。連日、あれだけの失態を講義中に見せてしまったのだから。
用紙に必要事項を記入して、その足で校長室へ向かった。ここでもあっさりと受理されてしまった。オレグが教務指導官を殺害未遂した件で、ユーリーのこともあまり良く思っていなかったからだろう。しかもその彼は子爵令嬢と婚約している。下手に友人である自分を扱ってしまえば、いつ火の粉が学校側に降り注ぐか計り知れなかったからだ。
自室にもどるとすぐに帰り支度を始める。休学だから荷物は少しでいいだろう。教本や筆記用具、軍服は寮側があずかってくれると管理人から聞いた。もし正式に退学することにでもなれば、連絡がつき次第、それらをまとめて送ってくれるとも付け加えられて。
退学する気などさらさらなかったが、自分が職業軍人に向いてないのも事実なのでそう思われても仕方がない。しかし他にどんな将来を選択すればいい?
幼いときから自分の行く末を決められていたせいで、考えることができなかった。気持ちが他に向かない。
休学した、と兄に告げたらどんな顔をするだろうか。侮蔑の視線と激しい非難がまっているにちがいない。
けれど自分はもう子供ではない。それに兄の子供たちには自分と同じような思いもして欲しくなかった。名ばかりの貧乏貴族だが、平民たちよりはるかに将来の道は安定している。その気になれば軍人だけでなく、官吏にもなれるし、上級貴族に仕える仕事もある。退屈だと言われてるお役所仕事も、性格しだいでは天職になるにちがいない。
これが貴族の特権なのだと、ユーリーは噛みしめずにいられない。
それがないばかりに、オレグはいつも……。
我に返る。もう会うことはないのに、思考はいつもそこで落ち着いてしまう。
一日でも早く忘れてしまいたい。
あのグリエフと無二の友だという噂は真実だろうが、そうでなかろうが、どのみちもう自分とは縁のない世界に彼は行ってしまった。その本心はどうあれ、そう決めてしまったのだから今さら、自分がどう言っても始まる話ではない。
忘れたい、忘れたい、忘れたい……。
再び鞄を開けた。いやでも緑の輝きが目に止まる。
これまで持って帰るわけにはいかないし、第一、不気味でたまらない。アリサの魂が自分の心に住み着いてしまっているようで、早くなくしてしまいたかった。
捨てるわけにもいかず、かといって所持するのはごめんだし、やはりアリサのことをもっとも想っているはずのオレグに渡すのが一番だろう。
しかしどうやって渡そう……。
自分が直接面会しようにも、ないものとして扱われてしまっている。手紙はどうだろうか。これも自分の名前があれば、開封もせず彼は処分するだろう。そんな気がする。
代理人はどうだろうか。あのオレグが自分以外に心を許していた人はいない。
「まいったなあ。これじゃ――」
そう独り言をつぶやいたとき、ある人物の顔が浮かんだ。
「そうだ。グリエフ様に渡してもらおう!」
無二の友かどうかは定かではないが、噂がたつぐらいだから交流はあるはずだ。