―春の章 10―
翌朝、グリエフ宛に簡単な用件のみを書いた便箋をユーリーは、首飾りを入れてしっかりと封をする。ヴラドヘン男爵の住まいは地方にあるというし、グリエフ自身も今どこで何をしているのか知らない。
だから噂を耳にしたというバリャコフを頼ることにした。最初は怪訝な顔をしていた彼だったが、オレグに渡し忘れたものがあるし、自分は休学してしまうから帝都を離れると説明すると、首を縦に振ってくれた。
ならばと、バリャコフは屋敷の秘書宛に文をしたため、それをユーリーに手渡してくれる。
「ペトルシキンを頼ればいい。グリエフが子爵令嬢の婚約者と交流があるらしい、と私に言ってくれたのも彼だったからな」
何度も礼をし、ユーリーは鞄を手に士官学校をあとにした。見送りは誰もいなかったが、しばらく学校の建物を見られないと思うと、心なしか寂しかった。
あらかじめ頼んでおいた馬車に乗り込み、アリョーヒン伯爵邸を目指す。士官学校は帝都の郊外にあるから、そう時間はかからなかった。以前、訪問したときのように、門には白い薔薇は咲いてなかったものの、磨き上げられた門柱がまぶしい。
門番に用件を話し、バリャコフが秘書宛に書いた文を渡す。ひとりの門番が玄関へと消えていき、しばらく待つと丸眼鏡をかけた小麦色の髪の秘書とともに出てきた。
「若主人様からご用件を承りました。さあ、どうぞなかへ」
穏やかな口調と微笑がユーリーを安堵させてくれる。水色の瞳も優しい色を放ち、これがあの傲慢バリャコフに仕える秘書とはとても思えないほどだった。
ユーリーは小さな居間に通されるのかと予想したが、なぜかペトルシキンは階段を上がっていく。途中、掃除をしている若い女中たちとすれちがい、彼は「ごくろうさま」とねぎらいの言葉をかけていた。
二階のある一室の前でペトルシキンは止まった。扉を開く。
「さあ、どうぞ。狭いですが、ぜひ僕の部屋でお話ししたくて」
「え? あなたの部屋?」
「ここが一番、落ち着くと思いますよ」
「いいんですか?」
「掃除は行き届いてますから、ご安心ください」
いったいどうしてだろうと思いつつ、ユーリーは案内されるまま彼の自室へと足を踏み入れた。二人がなかに入るなり、ペトルシキンはすぐに施錠をする。
嫌な予感がした。ユーリーは慌てて、扉の取っ手を握り締め、鍵を開けようとする。
「待ちなさい。君が想像するようなことはしない。それより、誰につけられている?」
一瞬、言葉の意味が呑み込めなかった。
呆気にとられた顔をしていると、厳しいまなざしでペトルシキンに腕をつかまれ、そのまま部屋の隅に移動させられる。そこは本棚が並ぶ壁際だった。
手早くカーテンを閉めたペトルシキンは小声で言った。
「……なんということだ。若主人はとんでもない客人を僕によこしたようだ」
「僕が?」
「君が乗ってきた辻馬車の後ろを、何者かがつけていたぞ。その顔では自覚がなかったようだが」
「まさか……」
校内で自分を見張っていた連中のことだ。士官学校を休学したのだから、もう用はないはずだし、ここまで跡をつけてくるとは予想の範疇を越えていた。
「おや? 心当たりがあるのかい?」
「え、ええ。まったくないとはいえませんが」
「ずいぶんと曖昧な答えだね」
「正直なところ、どうして見張られているのか、心当たりがないんです」
「でもつけられていた。まったくないはずはないだろう?」
今度は逆にユーリーが不審に思う番だった。
初対面でないとはいえ、まともに話したこともない秘書に、どうしてここまで問い詰められなくてはならないという?
「あなたこそ何者なんです? すぐに見張りのことを察知したし、執拗に尋ねてくる。僕のほうこそどういうことか説明していただきたい」
「それもそうだね……。しかし僕も同じ気持ちだよ。まず、君の素性からだ」
「いいえ。あなただ」
「君」
「あなた」
「……」
「……」
互いの顔をにらみつけていた。が、ペトルシキンが突然、破顔した。
「あはは。これはまいったなあ。若主人がよこした学生だというから、もっと坊ちゃんなのかと……、失礼。意外や意外、どうもかなり訳ありのようだね」
またあの穏やかな笑みがもどったから、ユーリーも笑顔を見せずにいられない。
「あなたこそかなり訳ありみたいですね。僕みたいな無力な学生にこうも警戒するなんて」
「まあ、時間はたっぷりある。ゆっくり話そう」
ペトルシキン自ら淹れてくれた紅茶を飲みながら、砂糖漬けの果物をつまんで腹を満たす。昼食をとっていなかったから、これはありがたかった。
後をつけられていたというから、ユーリーは彼の自室から出なかった。カーテンも閉め切ったままである。窓から姿を確認されてしまえば、ペトルシキン自身も警戒されかねない。かといって居間などで話してしまうと、誰に聞き耳を立てられてしまうか定かではない。
ユーリーは気持ちが落ち着かなかったが、ペトルシキンは余裕の表情で紅茶を口にしていた。
「グリエフ卿にこの手紙を渡せばいいんだね?」
執務机に置かれた封書を指差し、彼はそう言った。
「できれば直接お会いしたいのですが、無理でしょうか?」
「できないことはないと思うけれど、いい顔はしないと思うなあ。あの方も多忙そうだし、僕もいつお会いできるかわからないよ」
「ペトルシキンさんは、グリエフ様と面識があるみたいですね」
「まあね。いろいろ手助けしてくださるから、ありがたい存在だ」
「どんな手助けです?」
「いろいろ」
ここでペトルシキンは言葉を濁した。これ以上は話せないということらしい。
「君――えっと、ユーリーって呼んでいいかい?」
「はい」
「じゃあ、ユーリー。君はどうしてグリエフ卿と親しい? 同じ士官候補生だったというが、あの方は君のような一介の学生など相手にしないはずだ。なんらかの事情があるとしか僕には考えられないよ」
「それは……」
どうしようか。オレグのことを話そうか話すまいか。
もしここで判断を読みちがえてしまうと、後々、オレグ自身に迷惑がかかるかもしれない。まだ相手の素性を知らないのだから。
慎重にユーリーは言葉を選ぶ。
「グリエフ様の友人の友人です。親しいというより、その彼を通じて知り合ったというか。顔見知り程度だから、深い話はしたことがありません」
「この手紙はどうして?」
「その友人に頼まれたものです」
「では君をつけていたのも、その友人が関わっているからというのかい?」
「ええ、まあ……おそらくは」
「ふうん。なかなか意味深な友人を持っているんだねえ。気になるなあ」
「きっと実家が金貸屋だからでしょう。彼自身も実家にいるときは、命を狙われていたこともあると、言っていたぐらいですから」
「そんな物騒な輩も士官学校に在学しているのかい?」
「特別枠です」
「それはなに?」
「中等学校を卒業していない平民たちのためにもうけられた、選抜制度です。とても狭い枠ですが、これだけは誰でも受験することができるそうですよ」
ここでペトルシキンはしきりに感心するように、大きくうなづいた。
「ほう、ほう、なるほど。だからグリエフ卿はその彼と親しかったわけだ」
「どう関係があるんです?」
「特別枠の学生ならば、かなり優秀なはずだよ。君のその友人もそうだったんじゃないのかい?」
「ええ。なんていうか、陰で化け物と呼ばれてるぐらい、なんでもこなせる男ですから」
「それだよ、それ。だから卿は親しくしたわけだ」
ひとり納得しているペトルシキン。もちろんユーリーは面白くない。
これでは自分だけ一方的に情報を与えているようなものではないか。
残りの紅茶の飲み干すと、ユーリーは真っ直ぐに相手を見つめて言った。
「僕の質問に答えてください。なぜ、それが彼と親しくすることにつながるのかを」
目を閉じ、ペトルシキンは眼鏡をかけ直す。時間稼ぎだろう。
「そうだね……。あの方は理想主義者だ。常に現実を見ているが、その向こうも模索していらっしゃる。そのためなら、ご自身の都合など後回しにされるぐらいだ。高貴な身分だというのに――いや、だからこそだろう。己の持てる力をすべて理想のために捧げられているようだ」
ということは、だ。グリエフがオレグに「力になろう」と言っていたのは、実は逆で、彼のその類稀なる能力を買って、その理想のためとやらに巻き込みたかったのではないか。
グリエフの作ったような笑顔。
心から親しくするためではないから、あんな顔をしていたのだ。
「僕の友人の立場はどうなるんです? その理想とやらに振り回されているかもしれないんですよ」
涼しい表情のまま、ペトルシキンは答える。
「いいんじゃないのかい? 君のその友人も卿の理想に共感されたから、親しくしているんだろう」
じゃあオレグが子爵令嬢と婚約したのも、その理想のため?
それが理由であんな大胆な決断を?
すでにこの世にいないとはいえ、アリサがいたというのに……。
「その理想とは、具体的にどんなものなんです?」
「悪いがそこまで言えないな。君も知ってしまえば、少なからず巻き込まれてしまうだろう。何も知らないほうが、自身のためだ」
ユーリーはそれから何度か問い詰めたが、まったく相手の口が開くことはなかった。これ以上は何がなんでも話せないということらしい。
仕方なくここで再度、グリエフに手紙が届くよう念を押す。
「お願いします。とても大切な用件なんです。グリエフ様に渡してください」
「ああ、もちろんだよ。卿の親しいご友人のためだ」
ユーリーは頭を下げた。
そろそろ出発しないと馬車がつかまらなくなるから、鞄を手にして立ち上がった。
「これからどこに?」
カップを片付けながら、ペトルシキンがそう尋ねた。
「地方の実家です。体調を崩してしまって、休学することにしましたから」
「それは大変だねえ。でも今日はここにいなさい。ご家族に迷惑をかけることになるから」
「まさか。見張りがそこまで……」
「いや。こういうのは細心に警戒しておいたほうがいい。ここでつまづいてしまうと、忘れたころにとんでもない事件に巻き込まれてしまうのが、僕のいる世界だと思ってくれ」
ユーリーはカーテンの隙間からそっと表をのぞいてみた。通りが見えるが、いつもと変わりなく通行人や馬車が通っているだけだ。とても、警戒するような様子ではない。
「とてもそうは見えませんが」
「見えないようにするのが、やつらの仕事だよ。素人に露見するようじゃ、とうに解雇されている」
「じゃあペトルシキンさんは素人じゃないんですね?」
「ご想像にお任せするよ」
会話の内容はかなり尖っているというのに、相変わらず彼の表情は穏やかだった。だからこそ、このような世界に身を置けるのだろう。
視線を部屋にもどす。ふと、本棚に並んでいるある背表紙が気になった。
赤い色と厚みに見覚えがある。たしか……。
「永遠の春を誓いて、だったっけ。ここにもあるなんて」
盆を手に部屋を出ようとしたペトルシキンが、再び施錠し、踵を返した。その表情は険しく、顔色もよくない。
執務机に盆を置くや否や、彼はユーリーを問い詰めるように言った。
「ユーリー、君、もう知っていたんだね?」
「あの本のことですか?」
「ああ。内容は?」
「最初は恋愛小説かと思っていましたが、中味はまったくちがってました。思想書というのかな。とても現実的な話だと僕は思えませんでしたが、身分のない人にしてみればとても希望の持てる内容かもしれません」
「なんということだ。君まで……」
落胆した様子のペトルシキンに、ユーリーは戸惑う。いったい何がいけなかったのだろうかと。
「あの本を持っている者は、同志とみなされる。そして読んだことを知られてしまえば、賛同しないかぎり、命を狙われても不思議じゃない。しかも君は貴族だ。余計、危ない」
「ええ? そんなに危険なんですか、その本。グリエフ様からいただいたのに?」
あまりにも突拍子のない展開に、事態がうまく呑みこめない。
「君に渡したのかい?」
「というより、友人に渡して欲しいと言われて、預かっただけですが」
「あの内容では、君まで読むことを想定されてなかったのかもしれない」
「そう言われてみれば、夏期休暇が始まった日に……」
そうか。もともとそれを計算してグリエフはあの日に本を手渡したのだ。帰郷する直前にあんな分厚い書物、読む気になどなれない。持ち帰るにも邪魔になる。
そして休暇が終わってすぐに、オレグにあの本を手渡した。実際、そのとき自分が読んだのは冒頭だけで、それっきり目を通していなかった。もし彼が目を輝かさなければ、自分も一緒に読むことはなかったろう。それだけ興味がない書物だったのだから。
ペトルシキンは再度、カーテンの隙間から表を確認すると、厳しいまなざしをこちらに向けて言った。
「いいかい。君はもう巻き込まれてしまった。しばらく、僕の言うとおりに行動してくれ。しかもグリエフ卿と直接の知り合いだ。実家に帰るのは危険すぎる」
「……」
「不本意だろうが、君は悪い男じゃなさそうだ。だからできる限り、守ることを約束するよ。その代わり、君もできるだけ僕たちに協力してくれ」
肯定も否定もできない。そもそも、今、自分がどのような状況に置かれているのか理解できていないのだから。
ペトルシキンが小声で言った。
「君も家族が大事だろう?」
「ええ」
「ならば答えはひとつしかない」
ごくりと唾を飲み込む。
自分も目に見えない巨大な渦に巻き込まれているらしい。
オレグのように。
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