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ジャガイモを畑で栽培する許可を教会からもらったユーリーが、収容所にもどったころにはすでに日が暮れていた。詰所のクラミフを通し、所長室へと赴く。今日の報告と、明日から外泊するための許可をもらうためだ。
地主の屋敷はここから歩いて一日かかるという。往復するだけで二日は必要である。
所長はすでに夕食を終え、就寝前の酒を嗜んでいる最中だった。時間が時間だけにいい顔をしていなかったが、ユーリーの話を几帳面に聞いてくれる。副所長とちがい、怒鳴り散らすようなことはなかったから、囚人たちにも好かれていた。
寝巻き姿で執務机に座った所長は、髪も口ひげも白金色で、遠くから見ると老人に見えなくもない。実際は、副所長より若いのだが、本人がそう申告しないかぎり見破るものはいないだろう。
「……ふむ。そうか。次は地主か。まあがんばってくれたまえ。君に任せると言ったのは、この私なのだからな」
相変わらず話が早いから、説明しても気持ちが良い。
「はい。歩いて一日かかるそうですから、外泊の許可をいただきたいのですが」
「先住民族の村より近いな。なら問題はなかろう。ただし」
ここで所長は厳しい視線を投げかける。
「どんなことがあっても、期限内にはここにもどってこい。もし途中で、逃亡などしようものなら、君だけでなくここの囚人たちにも罪を償ってもらう約束なのだからな。寄り道も禁止だ。野垂れ死にするようなことがあったら、君の遺体を捜すことができんのだ」
「はい。承知しております」
笑顔でユーリーはそう答えた。毎回、締めくくりの言葉は同じだが、自分を信じてくれているからこそ、所長は自由にさせてくれている。感謝せずにいられようか。
ここで報告は終わるかと思ったが、意外なことを所長が口にした。
「本来なら、あそこは君ひとりで行かせたくないんだが……。これも初めの約束を破ることになるから、仕方ない。充分、注意してくれ」
「ええ? 所長もそうおっしゃるのですか?」
「他に言われたのか?」
「司祭様です」
「そうか。それだけ噂が広まっているのか。まあ考えようによっては、君の交渉次第ですぐに許可してくれるだろうよ」
「はあ……?」
ここでもユーリーは首をかしげずにはいられない。さっきから忠告はしてくれるものの、肝心の理由を教えてくれない。やはり腑に落ちないまま、雑居房にもどった。
すでにダニールもコンドラートも深い眠りに落ちていた。無理もないだろう。毎日、杉を伐採するために働きづくめなのだから。
ユーリーのために一杯の粥が残されていた。春になったからいくらかは改善したというものの、食料は不足していることには変わりない。給仕当番が採ってきた野草とわずかな穀物が一日の食事である。黒パンをいつから口にしてなかったろうか。
粥を流し込み、就寝するためにブーツを脱ぐことにする。手錠は所長室で外されたから、簡単に脱げるはずである。
「あれ……。足が……」
底が磨り減った靴で歩きつづけたせいだろう、気がつかないうちにマメができてしまい、そこから出血したらしい。固まった血と足の裏が接着してしまったようだ。
毎日、毎日、あれだけ歩けばそうなってもおかしくない。それより痛みを感じていない自分が不思議だった。それだけ精神が疲れきっているのかもしれない。
もう脱ぎ捨てるのも面倒になって、ユーリーはそのまま寝台に横になった。
翌朝、夜明けとともに起床したユーリーは、副所長に手錠をはめられると、地主の館へと出発した。逃亡を幇助してしまうため、馬は絶対に貸してくれない。ひたすら歩くしかなかった。
まずナザ村を通り、細い街道を歩く。地図を見たかぎり、ここを西進すれば地主の住んでいる館へたどりつくはずだ。
途中、何度か馬車とすれちがった。ひょっとすると地主の館の者かもしれなかったが、尋ねる勇気はない。手錠があるかぎり、不審な目で見られるのはわかっているから。
日が高くなり、自分の影が短くなってきた。気温も高くなっていき、コートを脱ぎたくなる。しかし手錠があるからそれはかなわない。しかも足まで痛み出す。昨日まではなんともなかったのに、こんな日にかぎって訴えだすとは。
これもひたすら我慢し、目的地に向かって歩きつづける。そして大きな館が目に入るころには、日が暮れかかって足の裏も悲鳴を上げていた。
きっと血まみれになっているであろう、己の靴底を想像しながら、門番へ用件を告げる。ここではっきりと事情を説明し、あえて手錠を強調した。後ろめたい態度をとってしまえば、逆に疑いの目で見られると学んでいたからだ。
地主の館は想像以上に立派だった。これではまるで領主か、と勘違いしてしまうほど大きく、馬車が数台止まっているのも見える。ナザ村の畑で見たのと、道中すれ違ったのと同じ型の馬車だ。
司祭や所長が危険だと言っていたが、目に余るほどの業突く張りなのだろうか。畑を貸す代わりにとんでもない数の金貨を要求してくるとか……。
その前に地主がこんな自分と面会してくれるのかどうか。門の前でひたすら待っているうちに、とうとう一番星が見えてきた。これでは望みは薄い。
出直しか……。
そう思いながらため息がもれたとき、三人の下男が出てきて、ユーリーを館のなかへと連れて行った。二人に両腕をつかまれ。ひとりに背中を押される。急げ、急げといわんばかりに、ある一室に入れられた。
そこは居間でも客間でもなく、風呂場だった。湯舟から熱い湯気が漂っている。
「あの……?」
わけがわからず下男たちを見る。そのひとりが小声で答えてくれた。
「ご主人様は小汚い客はお嫌いなんです。面会する際はできるだけ、清潔にさせるように言われておりますゆえ」
いやに潔癖な地主である。たしかに収容所にいる間に、風呂など入っていなかった。そんなものないから、ごくわずかな湯とタオルで身体を清めるしかない。
下男に服を脱がされそうになるが、手錠が邪魔をしてそれはかなわなかった。
「困ったなあ……。これじゃあ身体を洗えないぞ」
「仕方ない。それは外せないことをご主人様に説明して、髪と足だけでも洗おう」
「では僕が説明してくるよ」
三人はてきぱきと段取りをすませる。何がなんだかよくわからないうちに、ユーリーの頭は湯舟のなかへつけられてしまった。
「熱い!」
思わずそう叫んだが、いっこうに下男たちは構うことなく、石鹸で髪の毛を乱暴に泡立てる。
「痛い!」
もつれた髪を強引にほどかれ、そう叫んでしまうものの、彼らの手が休まることはない。
「ぎゃああああ!」
ブーツを脱がされてしまった。二人がかりで無理やり引っ張られたものだから、気が遠くなるほどの激痛がユーリーを襲う。
あまりの悲鳴にさすがの下男たちも手を止めたが、それも一時。熱いタオルで丁寧に足を拭かれた。出血が止まらないから、包帯まで巻かれてしまう。
地主に説明をするために消えた下男が、浴室にもどってきた。
「許可をいただいたよ。すぐにでも通してくれって」
髪の毛を湿らせたまま、ユーリーは下男の肩を借りて長い廊下を歩く。ブーツはもう履けないぐらい駄目になってしまったから、裸足である。余計、それが痛みを大きくしてしまう。
途中、小声で下男のひとりが言った。
「いいですか。交渉が終わるまでは絶対に、食べないでください。後悔しますよ」
「え……?」
何のことかこれも理解できず、さらに詳しく尋ねようとしたがまったく相手にされなかった。そのまま食堂へと案内される。
足の痛みをなんとかこらえながら、用意された椅子に座った。すぐ後ろには給仕が控えており、目の前にはここしばらく口にしていなかった、柔らかそうな白パンが籠にいくつも入っている。
ごくりと唾を飲み込んだら、皿が運ばれてきた。これもまた、もう久しく口にしていない赤カブの入った肉と野菜のスープだった。鮭料理の鮮やかな桃色が眩しい。この前食べたのはいつだったか……というぐらい、懐かしかった。
飲み物の紅茶には純白の砂糖が添えられており、オレグが奢ってくれた日々からやはり口にしていない。昨年の冷害が嘘のような食事が、ひどく自分を誘惑していた。
食べたい。でも食べられない。
後悔するって何を?
「ようこそ、わが館へ。思いがけない客人に心が弾んでたまらないよ」
そう言いながら、ひとりの男が食堂に入ってきた。ゆっくりとこちらに近づいてくると、髪の毛を摘まれる。
「ほう、これはまた、見事な金の髪だ。ここまで濁りがないのは私も見たことがない」
「それはどうも……」
怪訝な思いで地主であろう、男を見る。どこにでもいそうな中肉中背の中年だ。黒い口ひげも綺麗に整えられていて、清潔感ある紳士を思わせた。
「君はいくつだね?」
二十一、と答えようとして春で誕生日がすぎたことを思い出す。
「二十二ですが、それが……?」
「見た目より歳を食っているが、充分、合格だ。よしよし。予定外とはいえ、交渉次第では君が望むものをやろう。悪い話じゃないと思うぞ」
ちょっと、まて。
と、ユーリーは口にしそうになる。
まだこちらからは何も話していないというのに、いきなり悪い話じゃないって?
数々の疑問が頭に浮かぶが、だんだんとその真意が見えてきて、目の前のスープがひどくまずそうなものに思えてきた。
「あの……、僕は食事ではなく、ナザ村の畑をお借りする許可をいただきにまいったのです。すでに事情を説明しましたから、ご存知のはずですが、昨年の冷害で収容所の――」
と、ここでいきなり顎をつかまれ、強引に視線を相手の顔に移される。
「それは承知している。だから、私は交渉しよう、と言ったのだぞ。悪魔のリンゴかなんだか知らんが、おまえたちが食いたければ勝手に作って食うがいい。それでも税は変わらないから、そのぶん、村人が苦しむだけだがな」
「そんな……。それではあまりにも」
「所詮、犯罪者だ。この私に情をもらおうとするその根性が、気に食わない。取り引きするのなら話は別だが」
「取り引きと言われても、僕は何もそんなもの持ってません」
「だから気に食わないと言ったのだ。情だけで物事が動くと思うな。甘ったれめ」
顎をつかんでいた手が放された。
怖い。この男は怖い。
自分に投げかけられる黒の瞳も冷たい色を放っている。
交渉する気力が失せてしまい、ユーリーは拳を握り締めてうつむいてしまった。そんなな自分の手を優しく地主は握ってきた。反射的にそれをはねつける。
「さっき君は自分には何もないと言っていたが、充分持っているじゃないか」
「いいえ、何も」
「嘘をつくんじゃない。二十二にもなっているのなら、気がついているはずだろう?」
「……」
絶対に認めたくなかった。だから堅く口を閉じて首を横に振る。
「なら私が言ってやろう。君は稀にみるほどの美貌の持ち主だ。しかも性格は愛らしい。これが相手の心をざわめかさせずにいられようか」
「気のせいです。僕はまったく女性に相手にされませんから」
「女性というものは、力強い異性に惹かれるというものだよ。君はその対極にある」
「そんなこと今さらあなたに言われなくても――」
ここまで口にして、はっとした。勝ち誇ったような顔で地主がこちらを見たからだ。
「とうに気づいていたのなら、話は早かろう。一晩なら考えてやってもいい。村の税をいくらか軽減してやるぞ」
ユーリーは首を大きく横に振る。
「たった一晩だぞ? これでも遠路はるばるやってきたというのだから、甘めに見積もってやっているのだが」
「よしてください。これは交渉でもなんでもありません」
「ふん。政治犯なら貴族かインテリだろう? だがおまえは今、そんなお偉い立場じゃない。ここの使用人以下だ。つまらん誇りなど捨ててしまえ」
「…………嫌です」
地主は腕を組み、卑下するようにユーリーを見る。
「では交渉決裂だな。帰れ」
食卓の呼び鈴を地主が鳴らすと、すぐに三人組の下男がやってきて、ユーリーの身体を引きずるようにして食堂を退出させる。そして長い廊下を進み、玄関へたどりつくと、履いていたブーツとともに、屋敷を放り出されてしまった。
表は満天の星空で、帰りの道は見えないほど暗い。春とはいえ、まだまだ夜風が身に染みるころだ。
呆然と門の前に座り込んでいるユーリーに、下男のひとりが言った。
「気を悪くなさらないでください。お話できただけでもいいほうですから。もしあなたがご主人様のお気に召さない容姿と年齢でしたら、門前払いで終わってました」
廊下でそっと忠告をしてくれた彼だ。今にして思えば、彼らもまた美しい青年たちである。もっと早く察知していればよかったと、後悔してももう遅い。
「こんなことってあるか? あんなの交渉でもなんでもないじゃないか!」
無駄だと知りつつも、目の前の彼に八つ当たりせずにいられない。
「しかしあなたはまだいいじゃないですか。拒否できる権利がある。僕らには一切、ありません。ご主人様の機嫌を損ねてしまえば、また元の惨めな生活が待っています」
「惨めな生活?」
「はい。僕らは帝都にいました。親からも買い主からも見捨てられた元奴隷です」
「そ、そうだったのか……」
急に罰の悪い思いにとらわれてしまう。
自分だってこれほどまで惨めな状況なのに、下男である彼らはそれを拒むことすらできないと言っている。
やはりここでも自分は恵まれている立場なのだと、思わずにいられなかった。