―春の章 12―
包帯を巻いた足に無理やり底の磨りきったブーツを履かせ、なんとか帰路をたどろうとするが、一歩踏み出すたびに激痛がユーリーを襲う。
とてもではないがまともに歩ける状態ではない。日が昇るころにはいくらか痛みがひくかもしれないと思い、街道そばの草むらに身を横たえた。
瞬く銀の星をながめながら、自分がひどく空腹なのを感じていた。
思えば食事を口にしたのは昨日の就寝前。朝食が出る前に出発しなくてはならなかったから、このときも空腹をこらえていた。水もとっていないし、喉の渇きも我慢しつづけていた。
目の前に生えている雑草をむしり、噛みしめる。まずくて食えたものではない。
「うまそうなパンだったよなあ……」
館で用意された夕食が何度も思い出される。もし交渉が成立したら、あれらも自分のものになったはず。
……こんなことならやつの言うとおり、ちっぽけな誇りなど捨ててしまえばよかったのだろうか?
背中に悪寒が走る。
だめだ。そんなことを考えてしまったら。
身を売ってしまうほどまだ自分は落ちぶれていない。
ふとイリューシン子爵がよこした馬車に、レイラ嬢とともに乗り込むオレグの後姿が脳裏に浮かんだ。あのとき彼は、あれほどまで卒業するのが念願だったはずの陸軍士官学校を退学してしまい、亡くなったばかりの婚約者を顧みることなく去ってしまった。
今ではあれはオレグ自身の本心ではなく、別の目的のためにそう決断したのだとわかるが、気持ちはどうだったのだろう。
身を売るのとはまた別の次元だが、誇りを捨てていなければ、とてもではないが好いてもいない子爵令嬢と婚約するはずがない。しかも婚約者を毒殺した男の娘である。普通ならば相手の顔を見るのも拒絶してしまうはず。
「君は強いよ。僕にはできない……」
首にぶら下げている桃色の小石に、ユーリーはそう話しかけた。聞こえてくるのは夜のしじまだけだった。
夜露の冷たさで目が覚めた。身体を起こすと朝霧で周囲が白くにごっている。
いつの間にか眠ってしまったらしい。すでに夜は明けていた。
「しまった……。間に合わないかも」
ゆっくりと立ち上がり、街道を進む。刺すような痛みが足の裏を襲った。
「くううっ!」
歯をくいしばる。これでは一日かけて収容所にもどることができそうにない。
何か杖になるものを……と思いながら、ゆっくりゆっくりと街道を歩く。街道の横に木の枝が落ちているのが見えた。それを拾うと、なんとか歩みを速めて先を急ぐ。
しかし両足がやられているから、速めても普通に歩くようにはいかなかった。杖をついた老人の歩みのほうがまだ速いぐらいだ。
なんてことだ。期限内――つまり今日の夜までにもどることができなければ、仲間たちが自分の代わりに罰を受けてしまう。
ペトルシキンやコンドラート、ダニールの疲れ果てた顔が浮かぶ。
それでなくても毎日、伐採作業で精魂つきかけているというのに、それ以上に苦しみを与えてしまうというのか!
「それだけはだめだ……絶対に!」
幾度も自分にそう言いきかせ、血の吐くような痛さに耐えながら歩きつづけていた。
背後から馬車の音がする。振り返ると地主の館で見た馬車が、こちらに近づいてきた。
あれに乗せもらうことができたら……。
ユーリーは両手を大きく振りかざし、止まってくれるよう祈った。手錠が重い。
馬車は容赦なく大きくなっていき、止まる気配を見せなかった。「邪魔だ!」と御者に叫ばれ、速度を落とさない二頭の馬が目前にせまる。寸前のところで街道を飛び出し、草むらに転がった。
「馬鹿野郎!」
御者の怒鳴り声が尾をひいて小さくなっていった。
「くそう……どこまでもケチな野郎めっ!」
地主のあの好色な顔を思い出し、そう悪態をつかずにいられない。それでも歩かなければと、枝を両手で握り締め、再び街道に立つ。
やがてブーツを履いているにもかかわらず、自分の足跡が血で染まるようになってしまった。
夕闇が徐々に濃くなってゆく。しかしまだナザ村どころか目的地の半分と少しぐらいだろうか。絶え間ない激痛で思考も鈍っていた。
そのころには杖を捨て、地を這うようにして前に進むしかなかった。しかしここで手錠が邪魔になってしまい、両手を同時に伸ばすしかない。そのぶん、膝に負担がかかる。
もどらなくては。
何がなんでも今夜中には。
膝まで痛み出した。掌も皮がすりむけて、血で湿っている。
痛さと焦りが精神を蝕んでいき、思考が混濁してきた。今、自分は何をしているのかすら忘れてしまいそうだ。
前へ、前へ、前へ…………。
そんな自分の意思とは裏腹に、身体は動くことを拒絶していた。痛いと悲鳴を上げながら。
「おい、おいっ! 生きているのか?」
ぼんやりと薄目を開ける。自分の頬を叩くのはクラミフ監視官だった。
「……」
日差しがまぶしい。とうに夜が明けてしまったようだ。
何かを言おうとしたが言葉が声になって出てこない。
「捜索したのが遺体でなくてよかった。墓堀りは誰も好きじゃないからな」
クラミフはそうつぶやき、ユーリーを荷馬車に乗せる。
所長が言っていたとおり、期限内にもどらなかったから、野垂れ死にしているかどうか確認しに来たのだ。もし発見できなければ、次は重要犯罪者として指名手配される。
朝日かと思ったら、ユーリーが見たのは日没の日差しだった。空が茜色に染まり、星が地平線から昇ってくる。収容所に到着したころには、深夜になっていた。
クラミフと詰所にいた監視官に抱えられ、所長室へ運ばれる。
「生きていたか。つくづく運の強い男だな」
それが所長の第一声だった。
ユーリーはそのまま床に寝かされ、所長の言葉を耳にする。
「約束どおり囚人たちには罰を受けてもらった。君が期限内にもどってこなかったからと、丁寧に説明もした。反論はあろうが、これ以上の特例は認められん。囚人たちの風当たりは強かろうが、これも君への罰だ。私を恨むんじゃないぞ」
感情がわいてこない。身体もだが心も疲れ果てて、感覚そのものが麻痺していた。
所長は大きなあくびを一つして、寝室へともどっていった。代わりに所長室に入ってきたのは、怒鳴り散らすことで有名なマルチェンコ副所長である。
ユーリーのそばまでやってくるなり、忌々しげに言葉を投げかける。
「まったく。これだから政治犯は嫌いだ。さっさと逃亡すればいいものを、律儀にもどってくるのだからな。おかげで俺の仕事が増えるじゃあないか」
そして部屋を出、再びもどってきたときには熱い湯の入った桶と、薬箱を手にしていた。ユーリーの履いていたブーツをハサミで切り裂き、丁寧に脱がすと濡れたタオルでそっと拭いてくれる。掌と膝も同様に清められ、消毒された。
「しばらく歩くことは禁止だ。包帯を毎日変えることも忘れずに。破傷風になってしまえば、おまえもあのリマンスキーと同じ墓に入ることになるからな。よく覚えておけ」
そう言う副所長の手際は良く、包帯もあっという間に綺麗に巻かれた。ユーリーの手錠を外した彼は、所長室を出て行き、しばらくするとまたもどってきた。今度は湯気のたつ碗である。
「起きれるか?」
「……」
無理だった。話すこともままならないのだから。
「まだ俺を解放してくれんのか。世話の妬ける男だな」
匙をユーリーの口元に運び、中味を流し込まれる。それはいつもと味がちがう粥だった。しかも懐かしい。地主の館で見たあの赤カブの入ったスープだ。
「しっかり今のうちに食べておけ。これは所長にも内緒だ。……おまえの姿を見ていると、俺のほうがなんだか罪深く思えてくるよ。こんな収容所に入れてもよかったのだろうかと」
いつもなら怒鳴り散らすはずなのに、今日の副所長はいやに優しい。不気味なようでもあるが、たとえ演技でも嬉しかった。
「どうして逃亡しない? 何度も隙はあったはずだ。重要犯罪者になろうが、この辺境だ。街に姿を現さん限り、なんとか逃げ切れる可能性も大きいぞ。冬ならまだしも、季節もちょうどよい頃合だ」
それだけ自分は信頼されているのだと言いたかったが、あっさりと副所長の言葉がそれを否定してしまう。
「所長がおまえを自由にさせているのは、使えると判断しているからだ。本来ならばここの食糧事情改善は俺たちの仕事。だが、上の連中は頭が固い。しかも人手が足りない。かといって囚人は伐採作業で農作業に使えない。村は重い税でそれどころじゃない。八方塞がりなんだよな。それでもし、おまえがうまく食糧事情を改善したとしよう。でも、感謝はされない。されるのは所長だ。おまえは相変わらず囚人のまま。そういうところだ、ここは」
碗が空になると、副所長は立ち上がり、こう付け加えた。
「少しはずる賢くなれ。しかし、それがおまえのいいところだがな」
ユーリーはうなづいた。副所長なりの忠告なのだ。
普段は怒鳴り散らしているものの、怪我をした自分には優しい。本当に嫌なやつならこうして内緒で、スープなど与えてくれないだろう。
「ありがとうございます」
やっと言葉が形になった。
「よせ、照れるじゃないか」
副所長はそう言って、背中を向けたまま所長室を出て行った。代わりに夜勤の監視官二人が入ってきて、ユーリーを雑居房まで運んだ。
翌朝、ユーリーを待っていたのはダニールの激しい非難だった。
「くそう! おまえのせいで二日間、俺たちの食事がないんだぞ! しかもそのあと一週間、朝食抜きだ。これで木なんて切っていられるかよ! くそ重い丸太を運んでんだぜ! おまえだけは悠々と自由に行動してるから、俺たちのつらさなんかわからんだろ!」
予想通りの怒りである。目を見開き、腰に手をやり、指差しながら何度も何度も腹立たしさをぶつけてくる。
ユーリーは黙ってそれを受け入れるしかなかった。何を言われても、悪いのはこの自分なのだから。
いつもは穏やかなコンドラートさえ、憤りを抑え切れないようで、ユーリーと目が合うたび愚痴をこぼしていた。
「その足で僕らが同情すると思っているとでも? 残念だけど、君は約束を破ってしまった。ペトルシキンでさえ、君のことを罵っていたよ」
「ペトルシキンさんが……」
さすがにこれは衝撃的だった。あのいつも笑みを見せてくれる、ペトルシキンが人を罵る姿など想像できない。
「君は甘すぎるってさ。というより、狡猾だって」
「どうしてだよ?」
「善人なふりをしていつも他人を油断させる。地主のところに行ったのも、自分だけかわいがってもらうためかもしれない……と、彼は言っていた。なんでも地主は男色家だそうじゃないか。監視官がそう噂してたから、嘘じゃないんだろ?」
信じられない言葉の数々に鼓動が高鳴る。
たしかに悪いのは自分だが、そこまで言われる覚えはない。誤解もはなはだしい。
「待ってくれ。僕はそんな気はさらさらない。それにそんな方法で……そこまで落ちぶれちゃいない!」
ユーリーはそう訴えるのだが、コンドラートは冷たい視線を投げかけるだけだ。ダニールも忌々しさをぶつけるように言った。
「ペトルシキンが言ってたぞ。おまえ、その前はオレグのやつに取り入ってたんだろ? あいつを味方にしておけば、誰もおまえに逆らえないからな。あいつはすげえ強かったし、頭もキレた。まともに張り合えるやつなんていなかった」
さすがにこれは死者を侮辱しているようで、ユーリーは怒りを禁じずにいられない。
「誤解するのは勝手だが、オレグのことまで貶めないでくれ。彼はもう反論することができないんだ」
「はん。また綺麗ごとかよ。いいかげん、正体を現したらどうだよ、ユーリー?」
「正体って……? そんな目で僕を見ていたのか?」
「っと、俺は思ってなかったけどよ。ペトルシキンがああ言ったんだ、俺らが疑うのもしょうがないじゃないか」
「そんな……」
どこまでも衝撃的だった。
あのペトルシキンが。
ジャガイモを栽培することを誰よりも先に同意してくれたあの彼が。
そんな自分が好きなのだと、雪のなかで言ってくれた彼が。
あなたのほうこそ、善人なふりをして味方をつけているじゃないか!
心の叫びが頭に響き渡った。
朝食がないからユーリーたちは水だけを口にする。そして蔑みの視線を残しながら、ダニールとコンドラートは伐採作業に出るため、雑居房を出て行った。廊下では点呼が行われる。
ユーリーだけは足が使い物にならないから、寝台の上でじっとしているしかなかった。
囚人たちが去ったあとも、言葉の数々が頭にこびりついて離れない。
「ペトルシキンさんが……。信じられない、嘘だろう?」
しかし涙は出てこない。地主の件といい、自分がそんな目で見られていることに反発を感じる気力が失せてしまったからだ。
誰も口にしないだけで、前々からそう思っていたのではないか?
たしかにオレグと自分の仲は誰よりも親しかったかもしれない。しかしそれは、運動に参加する前からの知り合いだったし、危なっかしい彼を見捨てるわけにはいかなかったからだ。
オレグの自分を見る灰色の瞳を思い浮かべる。
冷酷に兵士たちを撃ち殺す彼をかばってしまうことこそ、ペトルシキンにしてみれば腹立たしかったのではなかろうか。運動そのものは血を流さないものだったはずだが、オレグが参加してからにわかにそれは血なまぐさいものへと変わってしまったからだ。
血には血を。死には死を。
そんな格言があるが、敵味方すべて滅び去ってしまうこともある。
結局、自分たちが求めていたのはなんだったのかと。
その静かな怒りが、今回の件をきっかけにペトルシキンの口から出たのかもしれない。
しかし直接、本人と話せないから、推測のままだった。
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